悲しみの底に光るもの | からだもこころも美しく

悲しみの底に光るもの

いたどり

 松本サリン事件で、当初犯人扱いされた河野義行さんの手記を読みました。奥様が被害を受け意識が戻らない状態になりながらも、自分は警察やマスコミから犯人扱いされた苦しみを乗り越えての「今」の言葉です。

 妻の意識はいまだに戻りませんが、私の話はすべて理解できているという前提で、元気な頃と同じように話し掛けています。きっといつかは目覚めると信じて、日々の出来事を語り聞かせることで、記憶の断絶をつくらないようにしたいのです。
 私はよく、「あなたはなぜオウムを憎まないのですか」と聞かれます。
 人生は有限です。人を恨むという行為は、その限られた人生を実につまらないものにしてしまうと私は思うのです。恨んで、恨んで、自分の時間、すなわち自分の命を削っていくような人生を、私は送りたいとは思いません。恨むことに費やすエネルギーがあるのなら、逆に妻が生きていてくれたことに感謝するほうに注いでいきたい。
 以前、会社に勤めていた頃、同僚が会議中に倒れたことがありました。私はすぐ救急車を呼び、応急の処置を施しました。
 同僚は、一命は取り留めたものの植物状態になりました。お見舞いに伺った私に奥様は、「夫の命を助けていただいて有難うございました」と何度も礼を言われました。私はその時、もし彼を助けなければ、奥様も介護に大変な思いをせずに済んだかもしれない。自分は余計なことをしてしまったのでは、という思いに苛まれました。
 しかし、自らが妻の介護をする身となったいま、あの時の奥様の感謝が本物だったことが実感できます。愛する人に尽くせること。そのためにどんな犠牲を払うことにも私は喜びを感じます。妻が生きることは私が生きること。心に芽生えたその思いは、あの事件により突き落とされた悲しみの底から、私が見出した光といえるでしょう。
 サリンの被害に遭った時、私は、これで自分も死んでしまうと思いました。しかし一方で、それでも構わないとも思いました。それまで自分の思いのままに生きてきた私には、ここで死んでも悔いはないと思えたのです。
 愛する妻の身に起きたことも、これが現実だと受け入れて、その現実の中で自分ができることをきょうまで精一杯やり続けてきました。後に悔いを残すことのないよう、いまを全力で生き抜くこと。その積み重ねによって、明日をも知れぬ人生に光は見えてくる。そう私は信じています。

 体調が悪い方、特にガンやアトピーで苦しんでいる方の良くなるお手伝いが出来ればという想いでこのブログを立ち上げましたが、結局、生きざまや命と向き合うことが、最終的には大事なのだと思います。肉体への対処対応ではなく、現実を見つめて様々な悲しみや苦しみを乗り越えていくことが「生きる」ことであることを河野さんの記事を読んで心から実感いたします。

 自分も自分自身に問い掛けたいと思います。
 
 あとで後悔しない生き方を、今日1日出来ましたか、全力で生き抜きましたか、と・・・。