上田です。
2月3日の「日刊タイビジネス」に掲載したエッセイを、許可を得て転載します。
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「東アジア共同体」という言葉を、誰もが一度は耳にしたことがあるに違いない。近年では、2009年に鳩山前首相がアジア政策講演の中で「東アジア共同体」構想を推進すると述べたことが記憶に新しい。
鳩山前首相の場合は、「夢」を語っただけで終わってしまったが、その一方で、経済面における協力関係・統合が緩やかなペースとはいえ、東アジアで進行していることも事実である。しかしながら、「東アジア共同体」が一体何を目指しているのかについては、曖昧でありわかりにくい。
日本において「東アジア共同体」構想が語られるようになったのは、2002年に小泉元首相がシンガポールで行った政策スピーチがきっかけとなったといわれている。小泉元首相は、その中で、「東アジア・コミュニティ」の構築を提案した。そして、その中核を成すのは日本とASEANであり、両者は「共に歩み共に進む」関係にあると明言したのである。
他のメンバーとして中国、韓国、オーストラリア、ニュージーランドがあげられ、その後、インドが加わる形で、2005年より「東アジア首脳会議(EAS)」として定例化された。ここにいわゆる「ASEAN+6」の枠組みが誕生し、これが日本政府の推進する「東アジア共同体」構想の原型となっている。
しかし、日本に先駆けて、ASEANに対して関係強化を働きかけ、経済統合の構想を持ちかけたのは中国である。中国外交の基本は、二国間交渉とされているが、1997年のアジア通貨危機以降、周辺諸国との関係増強に乗り出すようになった。ASEANに対しては、自由貿易協定(FTA)を提案し、2001年には、ASEAN-中国FTAの実現に関する合意を成立させている。
2001年と言えば、中国がWTOに加盟した年に当たる。ASEANへの接近は、FTAという経済統合により始まったが、これは中国の影響力拡大をねらった政治的行動の一環としてとらえるべきであろう。
そして中国は、地域協力の枠組みとして「ASEAN+3(日中韓)」を推進するようになり、「ASEAN+6」を提唱する日本と立場を異にすることとなった。現在「ASEAN+3」は「ASEAN+3首脳会議」という形をとり、「東アジア首脳会議」(ASEAN+6)と同じ場所で日時をずらして並行開催されている。
いずれにせよ、2002年の小泉元首相の「東アジア・コミュニティ」構想は、東アジアにおける中国の「抜け駆け」に驚いた日本の対応策といえる。この意味で、日本の「東アジア共同体」構想というのは、中国の積極的な動きに刺激されて提案されたのである。
ところが、最近、この日本の「東アジア共同体」構想に変化がみられるようになった。まず、2011年の「東アジア首脳会議」に米国とロシアが参加し、「ASEAN+6+2」に発展した。
米国の参加は、第一に米国の外交政策がアジアに転換されたことの反映であり、第二に中国に対する抑止力を意味する。しかし、アジアに属さない大国である米国が参加したことで、「ASEAN+6」としての「東アジア共同体」の主導権が、日本から米国に大幅に移譲されたという印象は免れない。
さらに、1月18日付の産経新聞によると、野田首相が「太平洋憲章」なる構想を9月に開催されるアジア太平洋経済協力(APEC)首脳会議で提唱する方針を固めたという。それは「アジア太平洋地域の持続的な経済発展と安定のため、経済連携や紛争解決などの包括的ルールを構築する新外交戦略」である。
ここで想定されているメンバーは、APEC加盟国21カ国。米国が、APEC域内での自由貿易圏の形成を目指していることからもわかるように、この野田首相の発想は、米国が進める地域協力の枠組みに便乗した形での提案である。
新聞報道によると、野田政権は「東アジア共同体」から「脱却」するそうだ。これは、経済協力を深化させてきた「東アジア共同体」構想が行き詰まり、先に進むことが難しくなったことを示唆している。
つまり、日本が中国と経済協力を超えた協力体制を構築しようと向き合った時に、いかに東アジアにおける安全保障を確保するのかという問題にぶつかってしまうのである。結局のところ、日本は、日米同盟関係抜きに、中国と真正面から共同体構想を語ることはできないのである。
当面、「東アジア共同体」という夢を語りながら、経済面での協力を進展させようとする試みは継続するであろう。しかし、その範囲での影響力を確保する、それが日本の「東アジア共同体」構想の限界なのではなかろうか。