日本共産党1961年綱領の起源〜構造改革論と民族民主革命論〜 | 日本と大分と指原莉乃の左翼的考察|ケンケンのブログ

日本共産党1961年綱領の起源〜構造改革論と民族民主革命論〜

1990年代に上田耕一郎・不破哲三『戦後革命論争史』(1956〜57年、大月書店)を読んで驚いたのは、理論的基盤がソ連共産党20回大会(1956年)で提示されたフルシチョフ路線(※1)におかれていたこと。出版当時、最新のマルクス主義理論ではあったから当たり前といえば当たり前だ。


都知事候補若林義春を応援する上田耕一郎(しんぶん赤旗2003年3月30日付)



上田・不破兄弟が『講座現代マルクス主義』にも参加し、第1期『現代の理論』にも論文を寄稿していた構造改革論者(※2)だったのは有名だが、構造改革派と上田・不破兄弟を分かつのは、1957年に公表された日本共産党綱領草案(起草の中心は宮本顕治)(※3)への態度だった。上田兄弟は綱領草案を支持し、構造改革派は、社会主義革命論をとる綱領草案反対派の一角を占め、特に論壇ではその日本帝国主義自立論とともに流行の観を見せた。特に学生日本共産党員は構造改革論を支持する者が多数だった。(高内俊一『現代日本資本主義論争』1961、三一書房)
論壇での自立従属論争で上田は綱領草案を支持する論陣をはった。上田・不破兄弟においては、構造改革論をとることと民族民主革命論をとることは矛盾しなかった。
戦後思想史を叙述した著作に「上田耕一郎は、党の権威を借りて論壇での自立帝国主義論の征伐をかってでた」というような記述を見ることがあるが、それは当時の論壇での構造改革論-自立帝国主義論の流行をとらえていない。上田・不破兄弟は人脈としても構改派知識人とのつながりが深かったし、対米従属論・民族民主革命論者ではあったが、トリアッチ理論/構造改革論はこの時点では堅持していたことのリアルに欠ける議論だと思う。後述するように、当時の日本共産党綱領草案支持派は日本の構造改革論は否定したが、イタリアのトリアッチ理論は否定しなかった。

1963年から、ソ連と日本共産党の公開論争が行われたときには、日本共産党中央の政策委員会に上田・不破兄弟も勤務し、ソ連批判論文にも参画していた。その主要な論点は、米ソ協調を優先して反帝国主義闘争を軽視することを批判するものだった。米ソ協調というソ連国家の外交政策を、国際共産主義運動に押し付けて、各国共産党の反帝国主義闘争を制限しようとすることは許せない、というものだった。
そこで批判されたのはフルシチョフ路線だった。だから、1956〜57年の上田・不破兄弟がフルシチョフ路線に立脚していたことに、1990年代の僕は驚いたのだ。

1970年代に人民的議会主義と多数者革命論を日本共産党は採用したが、これはグラムシ理論の現代版と評価できる。(※4)僕にとっては明白なことだが、これはあまり言われることがない。日本共産党がグラムシではなく、エンゲルス晩年の論考を典拠としていたことが大きい。不破哲三の1964年の論文では、グラムシは哲学分野で主観的観念論に陥っていると指摘され、公式に典拠にするのは政治的に不都合だったのだと僕は推察する。[不破哲三「現代修正主義とグラムシの理論」初出『文化評論』1964年5月号 『マルクス主義と現代修正主義』(1965、大月書店)、『史的唯物論研究』(1994、新日本出版社)など所収]
もともと、グラムシの主要な仕事は公刊された著作よりは、獄中ノートによるものだ。公刊されたものとは筆致も違い、検閲も考慮した用語法も多くて読みにくい。グラムシ理論がイタリア共産党の名と結びついていたことも、自主独立の日本共産党とは相性が悪かった。トリアッチの構造改革論は、フルシチョフ路線のイタリア版という面が強かった。イタリア共産党は、対ソ自主性を発揮した党として知られるが、1960年代前半の中ソ論争においては、日本共産党が中国寄りの中立だったのに対し、イタリア共産党はソ連寄りだった。
『戦後革命論争史』の基調は、1970年代には日本共産党の基調になった、とは、表面的な類似性に目を奪われた捉え方で、ソ連フルシチョフ路線との関係を見ていない。日本共産党が、いわゆる「先進国革命」路線(議会を通じた平和革命路線)へとカジを切るのは、1968年のチェコスロバキアへのソ連などワルシャワ条約機構軍による軍事介入して「プラハの春」を圧殺した問題を契機に、日本共産党のソ連観が大きく変化したことが大きい。ソ連フルシチョフ路線とイタリアのトリアッチ路線を、一旦は否定したという土台の上に、日本共産党の人民的議会主義は展開した。

僕の理解では、構造改革論とは、社会主義革命論と反独占民主主義闘争の折衷をしようとしたものだ。社会主義革命論を革命戦略として採用しようが、現実に直面するのは民主主義闘争で、その綱領的・戦略的地位づけをしようとしたのだと考える。それが構造的改良の方が前に出ることで、なし崩し革命論、ベルンシュタイン理論や社会民主主義路線とあまり変わらなくなってしまった。これが対米協調の重視と反帝闘争の軽視のフルシチョフ路線のイタリア版だという所以だ。
逆に言えば、反帝反独占の民主主義革命論をとると、反独占民主主義闘争を革命戦略の中に位置づけるのは容易だということになる。上田・不破兄弟は、この道を選んだ。その意味では構造改革論と民族民主革命論はまったく矛盾しないどころか、宮本顕治起草の1961年綱領こそグラムシ・トリアッチ理論に適合的だと上田兄弟は考えた。そして、その後、構造改革論は構改派にとってはマルクス主義を放棄する橋頭堡となり、上田兄弟にとっては要らないものになった。(もっとも構改派はその後四分五裂し、極左化したグループもあった。ここでは社会党江田派と行動をともにしたグループのことを言っている)
日本共産党が、得票や党員組織、機関紙部数を陣地に例えるのはまさにグラムシ理論の現代版である証左だ。

宮本顕治(しんぶん赤旗2007年7月19日付)




日本共産党は自らの革命戦略=綱領路線を独自性の高いものとする。特定の外国の体制や政策体系をモデルとしない、と。後年から見ればそう言うのは当然なのだが、その形成過程ではそうでもなかった。モデルとみなした既存「社会主義」国家の現実が明らかになったため、その国々をモデルとすることをやめ、その独自性を強調する他なくなった。モデルとした「人民民主主義革命」の内容もフィクションなのであれば、もはや現実のどこかにモデルをとったものではなくオリジナルのものだということでもある。

戦前の講座派がロシア革命論をモデル視していたのは、日本社会が半封建的性格を有し、絶対君主制の官僚制が支配し、議会の権限が弱い、という末期帝政ロシアとの共通性を日本の明治憲法体制に見たからだ。これで大きくは外れず、あとはロシアとの比較で戦前日本の特性を分析して革命運動につなげようとした。ロシア革命をモデル視することは、西欧の共産主義運動にはいくつもの否定的影響をもたらしたが、類似点が多かった日本の講座派では自明のことだった。(1926〜27年以降のコミンテルンの権威の確立によって生じた問題は多々ある)
労農派においても戦前日本の現状規定とか、天皇制の評価とか、革命戦略とか、講座派とは重要な違いはあったが、ロシア革命の衝撃を受けてマルクス主義化した、という面(厳密にはボリシェビキ化したとは言えなくとも)が強く、レーニンとソ連の権威を認める立場をとった。1960年代に、日本共産党とソ連が対立すると、労農派マルクス主義を標榜する社会主義協会向坂派はソ連に接近していく。その後、協会派は日本社会党内の親ソ派として行動していく。

戦後の宮本顕治は旧東欧の「人民民主主義革命」をモデル視していた。これは徳田球一とも共通の見解だった。これは「1950年テーゼ草案」(※5)への意見書を見ればわかる。宮本は自説をソ連・東欧・中国の諸文献の引用で補強した。もちろん、宮本意見書は徳田草案を批判したもので、徳田は宮本意見書をブルジョア学者のものという反論コメントをしている。50年の宮本意見書は、すでに1961年綱領の骨子となるものを提示していて興味深いが、徳田草案について「当面する革命を人民民主主義革命としているのに異議はない」としながら、アメリカ帝国主義が天皇制官僚にとってかわって日本社会の支配の主柱となっていることの把握が弱い、という批判をしている。

1961年の綱領制定の際に、日本独自の革命路線であることを示すため、当面する革命を「人民の民主主義革命」と修正した。「の」を入れることで、日本共産党のめざすものは東欧の「人民民主主義」とは別物だとした。この段階では、自主独立を自称しても党外からは政治的な建前だとしか受け取られていなかった。日本共産党の自主独立が本物だという評価を得るには、ソ連と中国の双方から攻撃と介入・干渉を受けて、国内メディアに「自主孤立」と揶揄されるようになってからのことだ。 
日本共産党の脱ソ連・脱スターリン化は段階的に進んだが、1963年からのソ連との論争、志賀義雄の造反と分派結成・除名だけでなく、その前の「50年問題」へのスターリンの介入や、その後の1968年に「プラハの春」をソ連が軍事力で圧殺したことの衝撃がそれぞれに脱ソ連化を進める契機となった。
特にソ連のチェコスロバキア侵略は、三権分立などの既存のブルジョア民主主義の政治制度への評価を肯定的なものに転換する、直接のきっかけとなった。
ハンガリー動乱(1956年)の際には気づかなかった、ソ連型社会主義や東欧の「人民民主主義」の虚構性に、チェコスロバキア事件で決定的に日本共産党は気づくことになる。なお、ハンガリー動乱でのソ連の軍事介入の評価の見直しは、1988年刊行の公認党史『日本共産党の65年』で行われた。

また、民族民主統一戦線とか民主連合政府とかの概念や用語は、中国革命もモデルになっていた。
戦後の宮本顕治・百合子夫妻が「新民主主義」の旗手だったことは知る人ぞ知ることである。
これも毛沢東が「文化大革命」で、日本国内の毛沢東主義者たちを支持し、日本共産党を「4つの敵」の1つとして攻撃してくる中で見直していく。(「4つの敵」とは、アメリカ帝国主義、ソ連修正主義、日本軍国主義、宮本修正主義者集団のこと。国会議員数が一桁の日本の小政党がここに入っていることの異常がわかるだろうか)

東欧の「人民民主主義」の建前や、中国の「新民主主義」の建前を信じた宮本顕治を、後年の視点から非難するのは容易で、ゆえに、後年の日本共産党宮本体制の下では、その起源にはふれず、むしろ日本共産党の独自性を強調するようになる。
しかし、同時代の論説にはその痕跡がある。
50年テーゼ草案批判意見書や宮本顕治『日本革命の展望』(1961年綱領草案についての1957〜61年の各種報告集)には、その痕跡があって、東欧のそれなりに発達した資本主義国が、「人民民主主義革命」を行ったことが重要な前例として言及されている。

自主独立は1日にしてなったわけではない。
「50年問題」は、コミンフォルム(共産党・労働者党情報局:ソ連・東欧と仏伊の共産党・労働者党で構成)論評の評価を端緒とするが、それは宮本や志賀義雄らがコミンフォルムの権威を借りて、論評の受け入れを主張することで徳田球一路線の批判に乗り出したということだった。彼らが国際派と呼称されるゆえんだ。ちなみに、徳田路線は勇ましい言辞や荒っぽい行動とともに、肝心なところでの占領軍との対決回避を特徴とし、国際派は徳田路線を「右翼日和見主義」と批判し、徳田派は国際派を「極左冒険主義」と批判するのが常であった。50年分裂下で、徳田派がスターリン仕込みの武装闘争路線をとると、これが逆転していく。ちなみに民族独立の課題を前面に出したのはコミンフォルム論評の「功績」だ。占領軍との決定的な対決を回避する徳田派指導だけでなく、占領下日本では、民族の強調自体が、戦中のウルトラナショナリズム・民族排外主義の高揚の直後だけにタブーだった。日本共産党が民族独立を掲げることは、占領軍との衝突を覚悟せねばならないものであるが、民族というシンボルの復活は、戦争に反対した日本共産党だから許されたことであった。戦後右翼は対米従属主義に「転向」した。 
日本共産党の分裂期に、統一派(国際派だけでなく、徳田派に排除された人々の諸グループを糾合したもの。統一委員会、のちに統一会議という組織を形成)は、ソ連に事情説明をしようとして、代表をモスクワに派遣もしている。にもかかわらず、コミンフォルムが徳田・野坂派支持を表明すると、統一派は瓦解した。公認党史はこの経過をあっさりと抽象的に叙述してあるため、リアルにはわからないようになっている。政治的には仕方あるまい。それだけ、日本共産党内にはソ連とスターリンの権威は浸透していた。ソ連と連絡をとり指示・指導を仰いでいた徳田・野坂参三はもちろん、そのルートから排除されていた国際派・統一派においてもだ。(徳田・野坂派がソ連の指示・指導を仰いでいたことについては、和田春樹『歴史としての野坂参三』1996、岩波書店を参照)
統一派は解体し、徳田派の下での日本共産党機関の下に復帰するとした。個々の統一派・国際派の党員には徳田派党組織に復帰しない者もいた。原則拘泥主義者と安東仁兵衛に評される宮本顕治は、徳田派党機関に復帰するが、すぐに仕事を取り上げられる。干されなければ、原則拘泥主義者宮本は、少数は多数に従うとして「軍事路線」に関与したのかもしれないが、徳田派の宮本嫌悪はそれも許さなかった。おかげで宮本は武装闘争路線への関与について無傷でいられた。

徳田球一の1950年テーゼ草案は、後年の公認党史では「まともな検討にたえるものではなかった」と酷評されているが、分裂下でソ連に押し付けられた、スターリン執筆の「51年綱領」は、後進国・植民地モデルの民族独立革命を論じていて、徳田草案よりもクオリティが低い。農地改革の意義の過小評価も徳田草案の方がまだまし、という感じだ。
「51年綱領」は、スターリン自らの執筆のものという観測が当時からあったのは、党分裂下の不正常な状況でソ連に押し付けられたものであっても、こんなものが「綱領」として採用されたことの不可解さからも了解できる。少なくとも50年テーゼ論争を踏まえたものとは思えない。

61年綱領の草案が1957年に発表されたときの、構造改革論者たちの印象は、「51年綱領」や徳田テーゼ草案との類似点が目につき、「陳腐」「古臭い」という評になった。当時は、日本の民族民主革命論が東欧や中国をモデルにしていることは自明だった。
綱領論争や自立従属論争も、日本は自立帝国主義国か対米従属国か、というところに焦点があり、民主主義革命か社会主義革命か、という論点も対米従属の契機を重視するかどうかに集中していた。
反帝独立闘争が民主主義闘争であるのは自明だったが、反独占民主主義闘争については経験が浅く、独占資本の支配を打破する革命は社会主義革命だとするのが、構造改革派の立場だった。
後年の不破哲三も反独占民主主義闘争というのは理論的には納得したが、具体的なイメージを持っていたものではなかった、と回想している。1960年代以降、反独占民主主義闘争はさまざまな展開を見せ、環境運動、消費者運動や各種の住民運動などで、共産党指導下だけではない運動として展開した。主婦連のおしゃもじデモが経団連本部に向かったとき、生活擁護の反独占闘争は社会主義でもなんでもない実例として、当時、日本共産党は高く評価している。革新自治体の広がりを社会主義運動によるものだとする見解はデマの領域に属する。

日本共産党綱領路線のオリジナリティは、やはりありあわせの材料からつくられたものだった。
ゆえに新しい理論と路線を求めた、1960年前後の学生党員たちには理解されなかった、ということだろう。
グラムシはともかく、トリアッチとイタリア共産党よりは、日本共産党と宮本顕治はオリジナリティとクリエイティビティを持っていた、ということである。
宮本は、戦前共産党中央を担ったときに、講座派指導者の野呂栄太郎の薫陶を受けている。講座派もレーニンとソ連のマルクス主義社会科学を懸命に摂取しながら、日本独自の理論を探究した。それがソ連とコミンテルンの権威の下での制約を受けていようが、そのオリジナリティは等閑視してはならない。

(※1)フルシチョフ路線とは、米ソ協調と平和共存、革命の平和的移行などを特徴とする。ソ連共産党20回大会というと、スターリン批判として知られるフルシチョフ秘密報告が有名だが、「秘密」でない表の路線も、一定のスターリン批判を進めた。

(※2)イタリア共産党のトリアッチが提唱した構造改革論は、グラムシ獄中ノートでの理論的営為をベースにしているというふれこみで、発達した資本主義国での革命戦略を平和的な構造的改良(構造改革)の積み重ねと論じた。構造改革論の紹介者の1人石堂清倫は、「構造的改良」が正しい訳語だとしたようだ。構造改革論の語は、社会党江田三郎書記長・委員長代行(任1960〜62年)とその周辺の理論家が用いて普及したと思われる。
日本共産党は、当時はイタリア共産党の路線を批判することなく、日本の構造改革派の理論に限定して現代修正主義と批判した。イタリア共産党が自己批判のうえで構造改革論を放棄して後、日本共産党もイタリアの構造改革論も批判の俎上にのせるようになった。
後に、不破哲三は、1964年にグラムシについての論文を発表し、日本の構造改革論を革命的なグラムシ理論から大きく逸脱したものと論じた。

(※3)上田・不破兄弟は、綱領草案の「反帝反独占の人民民主主義革命」を当面する革命だとする戦略を支持した。民族民主統一戦線を主体として行う「民族民主革命」と呼ばれることもある。

(※4)グラムシは、ロシア革命の成功とイタリア革命の敗北の対比の分析から、イタリアにおける市民社会の発達を析出した。すなわち、市民社会の領域でのブルジョア支配が強固であれば、国家が脆弱でも革命は抑え込まれた、とした。
ここからグラムシは発達した資本主義社会での革命戦略を「陣地戦」に例える。1つ1つの工場を労働者の手に奪取していき、それで市民社会での労働者陣営の陣地を確保してこそ、ブルジョア国家を打倒し、労働者国家の樹立が可能になる、ということだ。ロシア革命は「機動戦」の成功だが、発達した資本主義国での革命闘争は「陣地戦」でなければならない、と。
ちなみに、この「機動戦」から「陣地戦」へ、というのは第一次世界大戦での戦争のあり方の変化のアナロジーである。軽装の小銃部隊の機動的展開が勝敗を決した19世紀型戦争は、機関銃の登場により、20世紀には塹壕などの陣地の奪い合いに変化した。日本の戦争においては、内戦である戊辰戦争は機動戦で、日露戦争は「203高地」の攻防が典型的に陣地戦だった。

(※5)1950年の「コミンフォルム論評」をめぐる党内論争は、「論評」の受け入れで決着したが、これは綱領制定をめぐる公開論争の開始の決定でもあった。徳田球一書記長による綱領草案「来るべき革命の性質と日本共産党の基本的任務」(50年テーゼ草案)が示され、これへの意見書が公表された。公表にあたっては、徳田による反論コメントがつけられていた。
徳田によるテーゼ草案は、戦後日本をアメリカ帝国主義・日本独占資本・寄生地主のトロイカ体制とし、吉田茂政府に攻撃を集中してこのトロイカを串刺しにする、という内容になっていた。

宮本顕治意見書「来るべき革命と日本共産党の任務(19中総提出草案)に対する意見」(1950)は、『日本共産党50年問題資料集』『宮本顕治著作集第四巻』などに所収。徳田草案や他の有力党員の意見書も『50年問題資料集』に収録されている。