日本共産党指導下のフロント(社会主義学生戦線)? | 日本と大分と指原莉乃の左翼的考察|ケンケンのブログ

日本共産党指導下のフロント(社会主義学生戦線)?

現代史の些末なことが気になってる。

川上徹は、1960年に東大に入学し、共産党が指導している学生大衆組織の「社会主義学生戦線」(フロント)にまず加入した、と回想し、「日本民主青年同盟」(民青同盟)とフロントが日本共産党指導下の学生組織として併存していたことを記している。川上自身は大学生になってからフロントに加入していたのだが、共産党東大細胞の方針として、学生組織はフロントに一本化し、高校生時代に民青に加盟していた新入生は、民青を脱退してフロントに加入するようにしていた、ということだった。民青とフロントの関係は、共産党として整理されていない事情がうかがわれ、川上は東京教育大では民青学生班が兄弟組織として併存して活動していた、と記し、大学ごとに扱いが違う状況を示す。
川上も詳しい事情を把握していなくて、「そこには複雑な理論問題があるとかで、僕にはどうでもよかった」として深入りしてない。
(川上徹・大窪一志『素描・1960年代』同時代社、2007)
それで調べてみたところ、党派性を一定程度持った学生大衆組織は、学生同盟であるべきか、労働青年との単一の青年同盟であるべきか、という論争が、当時はまだ学生党員たちの間で決着がついていなかったことがわかった。いわゆる「層としての学生運動」論の評価の問題である。「層としての学生運動」論とは、初代全学連委員長の武井昭夫が提唱した理論とされ、学生は層として独自の位置を階級関係の中で占めるものだ、というもので、労働者階級の指導性を軸とし、中間階級である学生の動揺性を主要な面とする従来の共産党の指導理論に挑戦したものである。「層としての学生運動」論を高く評価するのなら、学生同盟を組織すべき、ということになるし、労働者階級の指導性の理論を採用するのなら青年同盟だということになる。ちなみに、「新左翼」諸派の学生組織論では党派ごとに違いはあるが、大きくは学生運動の革命性を強調する。「新左翼」諸派は学生運動から生まれ、学生以外にはほとんど影響力を持ちえなかった原因であり結果でもある、と現在の時点では評価していいだろう。
川上の回避した複雑な理論問題とはおおむねこういったことだと思われる。

後年、一定の知名度を持ったフロントは、日本共産党の綱領反対派が脱党して社会主義革新運動(社革)準備会を組織するものの、すぐに分裂して別に統一社会主義同盟(統社同)がつくられ、統社同の学生大衆組織としてつくられたものとするのが一般的だ。学生運動史のいくつもの文献でフロントの起源はここに求められ、『素描・1960年代』の解説記事もそうなっている。統社同とフロントは構造改革派による組織である。
全学連反主流派(日本共産党系が中心)が主流派(共産主義者同盟[ブント]が中心)によって組織的に排除された(このとき、大会は不成立だとして、反主流派はこの時点で全学連は崩壊したとし、再建運動を呼びかける)後、反主流派がつくった団体の全自連(全国学生自治会連絡会議)の執行部を占めていた活動家は新フロントに参加した。日本共産党の学生党員たちでは、綱領反対派なかんずく構造改革派が多数を占め、全自連の指導部も自ずから構改派で占められた。

前に『60年安保闘争と早大学生運動』(早稲田の杜の会・編、ベストブックス、2003)という、早稲田大の構改派活動家たちの回想・証言集を読んだことがあり、旧フロントは登場しなかったように思ったが、この機会に見直してみると、民青と同じくらいはちょっとだけ言及がある。民青同盟も旧フロントも影が薄く、安保闘争のころの日本共産党系の学生運動での青年同盟とか学生同盟とかの存在感が薄いことがわかる。
関西の構改派・ソ連派の学生組織の「民主主義学生同盟」(1963年結成)の流れを汲む『アサート:改革と民主主義をめざす「主張・参加・交流」のためのネットワーク情報誌』に、『資料 戦後学生運動史 別巻』(三一書房、1970)の年表が掲載されているが、そこには1959年10月に東京教育大で、1960年1月に早稲田大で、社会主義学生戦線が結成されたことが記されている。逆に言えば、他に旧フロントについての記載はない。


僕の学生時代の日本共産党の学生活動家向けの研修で、青年学生運動の歴史に触れたとき、「学生同盟か青年同盟か」という論争があり、結局、労働者と一緒に「青年同盟」でいくのが正しいとされた、という結論のみを教わった。「層としての学生運動」への批判点は別に教わった。僕も当時はそこに関心を向けなかったのでどんな論争があったのかまでは深掘りしていない。
1960年の民青同盟第6回大会決定には「5大会以来懸案となっていた『学生同盟論』を現情勢下では正しくないと考える」とある。それ以前の意見の違いの存在を示すとともに、青年同盟論の線での論争の決着がはかられた決定だ。学生党員たちの間での決着は、構改派の共産党からの脱党によって事実上は実現した、ということなのだと思う。
考えてみれば、社会主義学生戦線という名称そのものが社会主義革命論を前提にしている。民主青年同盟の方は、1960年の6大会で「マルクス・レーニン主義を学ぶ」としながら運動としては民族民主統一戦線の一翼を占めるという位置づけで、ゆえに「共産主義」とか「社会主義」とかを名称に入れずに「民主青年同盟」としている。6大会以前には「マルクス・レーニン主義を学ぶ」も入っていなくて、党派性を薄めようとしていた。

日本共産党指導下にあった時期のフロントについてはネット上に情報がない。
僕が読んだことのある文献にも登場しなかったように思った。川上の回想が初見で、しかもそれは踏み込んだものではない。前出の『60年安保と早大学生運動』には、読み落としていても仕方ないな、と思うくらいしか言及がなかった。
(余談だが、回想・証言集という性格から、それぞれの筆者はフロント派とか民民派とかの当時の用語を解説なしに用いていて、当時の事情についての予備知識がないとわからない。民民派とは民族民主統一戦線→反帝反独占の人民の民主主義革命という1961年綱領を支持する人々をさす)

蔵書をひっくり返してみると、小林良彰『戦後革命論争史』(三一書房、1971)が旧フロントについて記述していた。
日本共産党内の構造改革派の学生運動が、1960年はじめ頃からフロントを早大、神戸大などに組織し、独自の運動を進めたとし、構改派の脱党後は、その学生組織となった、とある。
独自の運動を進めた、という点は川上徹の回想と矛盾し、旧フロントの組織がそのまま、統社同の学生組織となった、とするのは、新フロントが統社同の結成とともにつくられた、とする他の文献と食い違う。

旧フロントは、構改派を主流派とし、日本共産党指導下の学生同盟として民青同盟と併存し、その関係は整理されておらず、日本共産党中央の本音は学生同盟論を否定して、学生も民主青年同盟に属す形を正当としながら、学生党員の多数派側にある組織として旧フロントを統制することも、民青への吸収合併というわけにもいかず、旧フロントによる社会主義革命論の展開も統制できる状況でもなかった、ということのようだ。

日本共産党指導下の旧フロントは、執行部を綱領反対派なかんずく構造改革派が占めていた。脱党した綱領反対派は「社会主義革新運動(社革)準備会」に集うも、まもなく分裂し、構改派は「統一社会主義同盟」(統社同)をつくる。社革に対応する学生組織として「青年学生運動革新会議」がつくられ、社革分裂に連動して、統社同の指導する学生新組織をとして、「社会主義学生戦線」(フロント)を結成、というのが、小林著以外の文献の記述の基本線だ。
旧フロントがそのまま、新フロントに移行したのか、同じような担い手ではあるが、一旦は「青年学生運動革新会議」に旧フロントを参加させ、社革分裂・統社同結成とともに新たな組織をたちあげ、正統性を主張すべく、旧フロントを名乗ったのか、結局、今のところ、わからない。
事実を確定しようとすれば、当時の文献を丹念に収集するとか、当時の関係者にインタビューするとかしてみねばなるまい。僕にそこまでは無理。
これらのことを調べる過程で、ある研究者グループが構造改革派研究で科研費をとったこともわかったので、その成果に期待しよう。

少し歴史を遡ってみる。
安東仁兵衛『戦後日本共産党私記』(文春文庫、初出1976・1980)では、1948年に全学連結成にこぎつけた学生運動家が「民主主義学生同盟」(民学同)を結成した、という記述がある。
民青同盟自身による『日本民主青年同盟の70年』(1996年)では、青年共産同盟、民学同、労組青年部などか合同して1949年に「日本民主青年団準備会」を結成した、とある。民青団は、日本共産党、労働農民党、産別会議などでつくられた民主主義擁護同盟に対応する、青年戦線統一組織としてつくられたことがわかる。ところが、組織合同が幹部間の合意でしかなく、現場の活動家を必ずしも団活動に参加させられなかったことで大きな力を持てなかったようだ。
レッドパージと共産党分裂と共産党主流派(徳田・野坂派)による武装闘争路線という、「50年問題」にからむいろいろを民青団はになったことで、組織は壊滅的な打撃をこうむったようだ。これは民青同盟の公式史で認めているし、僕たちの青年時代に学んだ青年運動史でもよく語られたことだ。
民青団が学生運動史に登場することはまずない。後述の反戦学同の結成が1950年の共産党分裂の前という早期に行われていることは、民青団の組織活動が現場に行き届いたものではなかったことを示しているようだ。

1955年の「6全協」で一旦、分裂を収拾した共産党だが、1961年の綱領確定と、綱領反対派の脱党までは、党内は大きな異論を抱えたままだった。川上は、公然と綱領論争を党内でもフロント内でもしていた状況を回想する。

かつて、学生運動が日本の国民運動の中で大きな比重を占めていた。京都での日本共産党の勢力の強さはかつての学生運動の隆盛から説明される。
日本共産党が青年学生運動についての、現在につながる理論と路線の基本は、1960年の安保闘争直後の7大会9中総決定と、同年の民青同盟第6回大会諸決定で確立された。党内でそれが未確立だったり論争中だったりする時期に共産党が指導する、民青とは別の学生組織があった、というのは、僕は川上著を読むまで知らなかった。共産青年同盟(戦前)→青年共産同盟(戦後)→民青団→民青同盟という歴史では、民学同が民青団に合流した以外は組織の外側のことなので、民青同盟の公式史に、1960年以前の学生同盟が登場しないのは筋としてはおかしなことではない。
日本共産党の公認党史にも、旧民学同や反戦学同は記述がない。あたかも黒歴史であるかのような扱いだと思う。

もう一つ、気になってるは旧フロントの起源だ。
民学同の民青団への合流後、1950年には共産党系の学生組織として統一派・国際派が主流の反戦学生同盟(正式略称はフランス語の反戦の頭文字をとってAG{アージェー])が結成されるが、「50年問題」の発生とともに徳田・野坂派の武装闘争路線とともに解散決議を全学連がする。これは、統一派が握っていた全学連の主導権を徳田派が奪取したのに伴う、かなり強引なものだったようだ。反戦学同は「6全協」後に再建されるが、それ以前にも解散に反対だった統一派・国際派の学生運動の残党が反戦学同の組織を残存させていた。
その後の反戦学同は、全学連主流派を占めて極左化し、暴力革命路線をとる別党である共産主義者同盟(ブント)の母体となった。反戦学同はブント指導下の学生組織に改組して社会主義学生同盟(社学同)となる。いわゆるブント全学連を主導するのは、学生組織としては社学同だ。
反戦学同については、『アサート:改革と民主主義をめざす「主張・参加・交流」のためのネットワーク情報誌』のサイトの松原敬の講演録「民主主義学生同盟 前史」と、前出の小林良彰著を参照した。

https://assert.jp/archives/4833

この松原講演には旧フロントはまったく登場しない。

(関西の構改派の一部は、1961年綱領の確定後も共産党を離党せず、共産党・民青内で活動していたが、指導者の小野義彦が志賀義雄と関係が深かったことで、1963年に結成された構改派組織「民主主義学生同盟」はソ連派でもあった。)


旧フロントは、社学同に対抗して、共産党の学生党員たちが組織したのではないか。同盟のドイツ語を略称としてブントと称したのに対抗するのに戦線をドイツ語/英語で略称フロントとしたのが「いかにも」な感じだ。
1950年代後半は、共産党がまだまだ混迷していて、後に誤りと総括されるようなことがいろいろと行われている。例えば、弱小組織として残存していた産別会議は1958年に解散しているが、これを後の共産党の公認党史では誤りだったと記述している。
「6全協」後、共産党内は百家争鳴の状態になり、公開の批判や論争を共産党中央が統制しようもない状態で、例えば、上田耕一郎・不破哲三『戦後革命論争史』の出版など、ありふれた事象の1つにすぎず、とても規制できる状況ではなかった。これが注目されるのは、彼らが日本共産党の幹部会委員長・副委員長までに昇り詰めたことで、『日本共産党の60年』刊行を機に1983年になって自己批判に及んだからだ。綱領草案についても意見の相違が存在し、公開論争が行われていた。
そういう中で、「層としての学生運動」論をとる学生党員たちが学生同盟結成に動いても、それが学生党員たちの多数派の側に属する動きである限り、分派とか勝手な動きとかとして規制できるものではなかったと思われる。
『前衛』の共産党青年学生部員の1人の署名論文で、民青同盟の組織の正当性と強化の必要性が論じられ、それが党中央の見解と見られていたとしても、共産党中央や民青同盟が、後年の民青同盟の基礎となる組織方針を決定するのは1960年の安保闘争直後の時期で、その後も綱領反対派が脱党するまでは民青同盟への青年学生組織の一本化はできなかったように見える。もちろん、民青同盟の内部にも綱領反対派はいて、社革は学生組織ではなく「青年学生運動革新会議」をつくるのは、民青同盟内の綱領反対派の参加を示しているようだ。

民青同盟が学生運動史に登場するのは、日本共産党綱領確定の1961年以降だ。1958年のブントの結成で学生党員の多数派がブントに加わり、1961年の綱領確定直前に、学生党員の多数派は綱領反対派として脱党した。第8回党大会の時点では、日本共産党は学生党員がかなり少ない状態になっていた。
もともと民青同盟は、学生党員からは労働青年の組織と見られていたようだが、それと旧フロントの関係は、大学ごとにまちまちだとしても、その実態は僕にはわからない。
綱領反対派の脱党の後、民青同盟は学生運動史に新規参入に近い状況で登場する。逆に言えば、共産党指導下の学生大衆組織は運動の実態としては存在感がなく、共産党が学生自治会や全学連との関係でも学生たちとの関係でも見えやすく登場していて、民青にしろ旧フロントにしてもその谷間になっていた、ということのようだ。民青同盟は、後年、学生運動で大きな勢力となるが、旧フロントの場合は一般に目立つ活動がなかったから、概史の類いには登場しない、ということなのだろう。
学生同盟か青年同盟か、という理論問題は、旧フロントと綱領反対派が共産党から離れることによって、共産党内ではほぼ決着したということだろう。共産党系の学生運動の再建は、民青同盟学生班の拡大をテコとして進められ、これが1964年の全学連再建(いわゆる民青系全学連の結成)につながる。
ちなみに、1962年に結成され全学連再建の母体となった平民学連(安保反対・平和と民主主義をめざす学生自治会連合)は、学生自治会だけでなくサークルや個人の参加を認めたそうだ。結成時にはまだ加盟自治会が少なかった平民学連が、加盟自治会を増やすために、平民学連・全学連再建をめざすサークル・個人を組織した、ということだ。再建後の全学連や都道府県学連も、未加盟自治会の加盟や結集をめざしたり、自治会の結成をめざしたりするグループを、構成団体ではないが支援する活動をしていた。

全学連再建のときの委員長で、後の民青同盟中央常任委員だった川上徹は、「層としての学生運動」論に同調的だったことを記している。日本共産党・民青同盟の公式方針では1960年に「層としての学生運動」論を否定しているはずだが、川上の思考の回想は学生運動や民青同盟の指導者として、日本共産党青年学生部での理論や路線の未確立部分で活動していたところがある。

川上徹は、僕の父と同年代だが、父にとっての安保闘争の思い出は多くの学生と一緒にデモに行った、というくらいしかない。父は全自連と平民学連の関係も知らなかった。民青・共産党への加入以前に全自連支持の委員長候補の応援演説をしたことがある、というくらいの関与だ。共産党への入党も4年生のときで、1961年の大会前の時期に綱領草案に賛同したので入党した。大分大学学芸学部の学生だった父の語りに登場するのは民青同盟であって、フロントは存在も知らない様子だ。トロツキストとして記憶される活動家もブントとか革共同とかどの系統なのかに父は関心がない。都会育ちで政治的に早熟で東大・全学連再建・民青同盟中央常任委員というキラキラの運動歴の川上とは同時代でも見ているとのがずいぶんと違うな、と思いながら、『素描・1960年代』を読んだ。

日本民主青年同盟のロゴ


日本共産党のロゴ