日本共産党は「一国一前衛党」論を放棄していた件 | 日本と大分と指原莉乃の左翼的考察|ケンケンのブログ

日本共産党は「一国一前衛党」論を放棄していた件

「一国一前衛党」論は、日本共産党の排他性とか独善性を示すものとして、今でも話題になることがある。


松竹問題で盛り上がる界隈ではそれなりにとりあげられている。

ところが、日本共産党はすでに「一国一前衛党」論を放棄している。それは公式にはどこにも言及されていないが、現在では「一国一前衛党」論に立っていないのは明白だ。

「一国一前衛党」論とは、1つの国に前衛党は1つ、という議論で、その起源はもちろんコミンテルン(共産主義インタナショナル/第3インタナショナル)にある。世界政党であるコミンテルンには、各国支部の認定という形で正統な前衛党を認定する権威があった。

前衛党理論は、2000年に日本共産党が規約から「前衛政党」の自己規定を削除したことで清算したもの。
現在では、党の理論政治誌の名にしかその用語は残っていない。規約改定時に、誌名変更も提起されたが、歴史と伝統のある誌名は変更すると損失も大きいようで沙汰止み(似た前例に全学連機関紙「祖国と学問のために」がある、というのはあまりにマニアック)

「一国一前衛党」論に僕がふれたのは、1980年代、ソ連批判論文のうちの1つだ。
日本のソ連派組織を反党集団と規定する日本共産党は、ソ連共産党に対し、「一国一前衛党」論をたてにソ連派組織との関係断絶、すなわち援助の打ち切りを主張した。
同様の主張は中国共産党に対してもなされた。80年代に中国共産党から党間関係回復の申し入れがあった際、毛沢東時代の介入への反省と、毛沢東主義諸派との関係断絶を求め、中国側がそれをあいまいにしようとしたために関係回復はならなかった。

日本共産党は「一国一前衛党」論に、外交的にも忠実で、日本共産党がその国の前衛党と事実上認定した政党としか党間関係を結ばなかった。外国の自主独立の左翼社会主義政党の多くは、ソ連派共産党から排除された人々がつくったものであるがそこに反映していた。これらの党の中には前衛党という自己規定をとっていないものもかなりあるが、日本共産党の側の事実上の認定である。
インドではソ連派共産党と自主派共産党とその他の左翼社会主義政党とで政党連合を組んでいる。分裂からの経緯で1980年代には選挙や国会内の協力関係である。自主派のインド共産党(マルクス主義)[CPIM]以外の左翼政党から党間関係の樹立の申し入れがあったのだが、そのとき、日本共産党はわざわざCPIMに許可をとっている。

国内的には、「新左翼」諸党派は「前衛党」を自己規定するものが多く、「一国一前衛党」論は、それらに対抗するものとしても認識された。

外国との関係で、「一国一前衛党」論を放棄したことが明確になったのは、1999年に幅広く保守政権や保守政党も含めて「野党外交」を展開し始めたときだ。
このとき、同志的関係の諸党だけと関係を結ぶ、という従来のやり方を改めた。すでに「一国一前衛党」論の外交的な実用性は、ソ連崩壊とともに消滅していた。
あまり注目されていないが、この野党外交の展開は、1998年の中国共産党との関係回復が契機となっていることが、当時、地味に言及されていた。
すなわち、同志的関係にあるから中国共産党との関係を回復するのではない、という結論の下に、中国との関係回復に踏み切っていることを日中両党関係正常化の際に表明していたのだ。当時の文書を見ると、日本共産党と中国共産党とは同志的関係になく、中国の政権党と日本の革新野党との外交関係だと日本共産党は言っている。
同志的な関係でない政党とも党間外交を行う、ということであれば、今後は多様な外国の政党(後に政府とも)とも外交関係を築く、という方針に日本共産党は党としての外交路線を転換したのだ。

国内的には「新左翼」運動が衰退し、全国的にはまともに相手にする必要がなくなるとともに、無党派や他党派との統一戦線の強調の必要や、独善的な体質の改善の必要から、前衛党理論は薄められてきた。
前衛党理論とは、科学的社会主義を基礎とする政党が、社会変革と革命の司令部となる最高の組織であり、他党派との緊密な連携でつくる統一戦線も、前衛党が指導するものなのだ。もちろん、これはあくまで自己規定であり、指導とは統一戦線を指導下におく、という意味ではなく、正しい方針によって統一戦線を正しい方向に誘導する、という意味だ。あくまで自己規定・自称ではあるが、スターリン政権や徳田共産党が何をやってきたのかを知ってる人々からすれば、それでなくても必然的に「上から目線」が付随する前衛党理論に、共産党による引き回しの理論的根拠となることを警戒したし、日本共産党員が執行部の多数を占める組織で、引き回しと批判されるような事態があったのはそれはそれとしてかなり事実としてあることだった。
公認党史『日本共産党の65年』までは日本共産党の創立の意義の1つに革命の「司令部」の誕生だと位置づけていた。『70年』では「指導部」とやわらげられ、『日本共産党の80年』からはその類いの規定は消えている。

2000年の規約改定のときには、用語上の変更だと説明されても違和感がないくらいに前衛党理論は薄められていて、「前衛政党」規定の削除は、最終的に前衛党理論の放棄を確定したものとなった。「一国一前衛党」論もすでに実践的に放棄されていたので、こちらも最終的に放棄が確定したと見ていい。