わが苗字と家紋と大友氏 | 日本と大分と指原莉乃の左翼的考察|ケンケンのブログ

わが苗字と家紋と大友氏

僕は、アメブロでは、一応ハンドルネームを用いているが、プロフィールのページでも、他のページでもたびたび本名をさらしている。地方の、しがらみのない無名の者が本名を出しても正の効果も負の効果もないことを体感している。都会の人たちとはかなりその辺の事情が違う。

僕の父の苗字は「植田」で、母の旧姓は「利光」
ともに大友氏と同じ家紋を用いる「同紋衆」である。大友氏の一門だとどこかで認められた家だ、ということだ。
利光氏は、大友氏重臣の家だ。戸次(べっき)氏の支族で、利光地区(大字上戸次字利光)の領主だった。戸次川(へつぎがわ)の戦いは、利光地区の鶴賀城に籠る利光宗魚への援軍を豊臣が送ったことによるもの。何かのゲームでは、利光宗魚のカードもつくられているそうだ。戸次氏は、れっきとした大友一門で(厳密には大神氏支族の戸次氏を大友氏出身の養子が継いだことで乗っ取ったもの)、利光氏の出自・系譜もはっきりと記録にある。ちなみに、同語源だと思われるが、地名では「へつぎ」で、苗字としては「べっき」で、苗字で「へつぎ」と読む例はわずかで、「べっき」さんにには何人かお会いしたことがあるが、「へつぎ」さんには会ったことがない。
利光氏は、大友氏の改易の後、農民身分で名字帯刀を許された庄屋として、豊後の各地に分立して存続した。もはやどこが本家なのかはっきりしない様相だ。明治初年に、すべての人々に苗字が許されたとき、集落によっては、在地領主や庄屋など地域の有力者の苗字を集落全体が名乗る、ということが行われたようだが、利光姓の人々はそんなに多くないところを見ると、各地の利光家はそういうことはしていないようだ。母方の利光家は、稙田地区の市(いち)の庄屋→地主だったが、不在地主で戦後の農地改革で没落。農地改革の前はかなり裕福な家だったようだ。祖父は商船学校出の船乗りで、海軍の予備大尉だったが、太平洋戦争末期に海軍徴用の輸送船に乗り組んで戦死。日本が制海権を失っていたことを知っていたのではないか、というエピソードもある。船乗りらしくモダンな人だったようで、ダンスホールが営業中止となる直前の時期に神戸に住んでいて、祖母の妹(僕の大叔母)をダンスホールに連れて行った、というエピソードもある。祖母は、祖父の靖国合祀を拒否したそうだが、靖国神社は遺族が拒否しても合祀するところなので、合祀されてる可能性はある。
祖父は末弟だったが、長兄や次兄は大分県を離れ、市の本家は、当主の妻の死去とともに消滅。跡地は長く空き家で、僕の子ども時代は「幽霊屋敷」だったが、区画整理を経て現在は女系の外孫が住んでいる。市の利光家の当主が稙田村の村長を務めたことがあるそうで、その功績を記した石碑がかろうじてその跡をとどめる。
戸次本町で、歴史を学ぶ活動をしていたことがあって、戸次の郷土史家は、えらく利光宗魚を尊敬していた。大友義統が「最後の砦」高崎城にこもり、援軍は豊臣秀吉の軍が主力。マンガ「センゴク」にかなり描かれたようだが、僕は「センゴク」を読んでない。仙石秀久は、戸次川で敗北しなければ、豊臣子飼いの武将として出世したかもしれないが、惨敗したことで一旦は改易の憂き目にあったという。鶴賀城の利光宗魚は、そんな中で奮戦したという。戸次川の敗戦後、降伏したらしいが、宗魚は降伏の前に討死。鶴賀城の降伏の経緯も諸説あるらしいが、戸次の郷土史家は死守したうえでやむなく降伏、という説を支持していた。
ちなみに母の母方は、大分市高田地区の庄屋の家柄の「中村」の家の出身。戦争が激化して祖父が船乗りとしての仕事がなくなる状況になったときに中村家を頼って、小学校の「小使いさん」をしていたらしい。祖父が再招集され戦死して、祖母はそのまま中村家に身を寄せた。僕が子どものころ、母が帰省していたのは、高田の中村家だ。いかにも地方名望家といった旧地主の旧家だった。

植田の方は、「大友四天王」に仕えていた、と亡くなった祖父は言っていたそうだ。植田の本家のあった現大分市鶴崎は熊本藩(細川氏)の飛び地で、現地採用された下級武士だったそうだ。大友時代は鶴崎城主だった吉岡氏の家臣だったということか。そっか、細川護煕さんって雲の上の主家筋なんだw 僕は細川護煕政権に批判的だったけど、「500年ぶりの政権復帰」とか言ってもあまり周囲は関心を示してくれなかった(細川藤孝・忠興は分家の出身なんだけど、衰退していた細川氏を大大名にまで再興したのは間違いない。こういうことは大河ドラマ「麒麟がくる」のときに知った)
吉岡氏は、大友一門の「同紋衆」で、義鑑・義鎮(宗麟)の代に台頭し、「大友三老」の1人だった。「大友三老」が軍事面の有力者だけをさす用法もあって、そこに吉岡氏はいないのだが、この場合、政務を司った「大友二老」が同時に語られ、「二老」の方に吉岡氏は名を連ねる。軍事の「三老」と政務の「二老」は、1人は重なってるから、それが後世に「四天王」と口承されてても、大きくは記録とズレていない。鶴崎城主の吉岡氏といえば、豊薩戦争で降伏したふりをして、薩摩軍をだまし討ちにした嫁の妙林尼が、歴オタには有名だ。妙林尼は実家がどこかも記録がなく、吉岡姓で呼ばれることもあるが、嫁を婚家の苗字で呼ぶ制度は明治になってから確立したもので、正確なものではない。
植田の先祖は、どうやら吉岡氏にどこかで同紋の使用を認められていたようだ。吉岡氏には重用されていたのかもしれない。
大友氏は、宗麟の最盛期には北部九州全域まで支配地を広げた。功績のあった家臣や、新しい支配地の領主たちを一門に列し、同紋の使用を認めて支配を固めようとしたらしい。それに倣えば、植田の先祖が吉岡氏と血縁があったかどうかはともかく、同紋を許されるほどには重用された、ということにはなる。公式の記録は本家の伯父(歴史好きだったがすでに故人)が調べていただろうがどういうものだったかは聞けていない。
江戸時代に何かの作為が疑われるところでもある。主家筋の吉岡氏もまた熊本藩に仕えていたようなので、吉岡氏による同紋使用許可が、江戸時代になってからの可能性も否定できないが、それを検証する能力は僕にはない。逆に言えば、江戸時代であっても、吉岡氏の許可なく、植田の家が大友同紋を用いることは不可能だったと僕は推測している。

植田の苗字のルーツはまだ知らない。豊後土着の苗字ではなさそうだが、それをちゃんと調べるのもなんか面倒だな、と思っているのが現状だ。
植田の家はそんなに裕福ではなかった。旧士族だったことを誇りに地味に生きた、職人肌の祖父と伯父だった。

父母が結婚するときに、父母自身は家柄など関係ない、という信条だったが、家族には家柄の釣り合いを気にした方もいたらしい。
利光氏は、歴史に名を残す名族だったとしても、苗字帯刀を許され、庄屋として裕福さを保障されてはいたが江戸時代は百姓身分だった。植田家は、下級で豊かではないが武士身分。こういう身分制度は明治憲法下ではかなり重要な意味を持ち、利光氏は「平民」、植田家は「士族」という身分表記は、戸籍その他についてまわった。学校の通知簿や卒業証書に明記してあった、というのだから、立派に身分として機能していた。
ということで、父母の両家の家柄は対等ということで周囲は納得したようだ。

機会があって以上のことを調べてみた。調べるといっても、ネット検索で誰かが調べたことをチェックしただけのことだ。
利光、吉岡だと、ネット上の情報もかなりある。自分で古文書をひもとかなくてもこの程度なら大丈夫。
いまどき、家柄なんてどうでもいいことだ。先祖がすごい人たちだったからといって、僕が偉くなるわけではない。ただ、今となってはどうでもいいことを、最近まで大事にしていた祖先の思いには同情する。

妙林尼のお話はすごいので、印象に強く残る。
キャラの立った女性というのは、歴オタの一部には萌えどころ満載