坂上田村麻呂の墓から新十条通を西へ走る人

大石神社前から南西へ走る人



左 大石良雄(内蔵助) 旧跡。



稲荷山方面。



大石大夫閑居跡。



進んで行くと。



右側に、大石良雄(内蔵助)山科閑居址。











山科の街。





岩屋寺 忠誠堂。



大石良雄(内蔵助)遺髪塚碑。



大石の遺髪を埋めた塚。









岩屋寺(大石寺)。



赤穂義士 大石良雄(内蔵助)の隠棲地。

本尊 大聖不動明王は大石良雄(内蔵助)の念持仏ビックリマーク


山科一ノ宮 山科神社。



日本武尊・稚武王を祀る。



大石良雄(内蔵助)

播磨赤穂藩浅野家の永代家老家に生まれる。祖父大石良欽の跡を継いで若くして家老となる

1701年(元禄14年)3月14日に主君の赤穂藩主浅野長矩内匠頭江戸城内において高家吉良義央上野介に遺恨ありとして殿中刃傷に及ぶも討ち漏らして即日切腹、赤穂藩は改易となった。一方義央には何の咎めもなかった。赤穂城明け渡しをめぐって浅野家中では開城、切腹、抵抗など議論があったが、最終的には良雄が家中の意見をまとめ、藩札や藩の借金の処置にも努め、4月19日に城を受城使脇坂安照に引き渡した。

その後山城国山科に移住。この時期には長矩の弟浅野長広(大学)による浅野家再興を働きかけつつ、それがかなわなかったときには主君長矩の恥辱をそそぐため義央を討つ計画を進めていたと見られる[1]1702年(元禄15年)7月に長広の浅野本家預けが決まったことでお家再興の望みは消え、同月に良雄は京都円山に同志を集めて「吉良邸討入り」の意志を確認した。

その後江戸へ下向。47人の赤穂浪士を率いて同年12月14日から15日に両国の向かいにあった本所一ツ目の吉良邸へ討ち入り、義央の首級をあげて泉岳寺の長矩の墓前に供えた[1]。その後赤穂浪士は幕府の命により4家の大名家に分けてのお預かりとなり、良雄は熊本藩細川綱利にお預かりとなり、翌1703年(元禄16年)2月4日に切腹となった。遺骸は高輪泉岳寺の長矩の墓のそばに葬られた。(Wikiより)


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