泉涌寺の霊明殿の裏へ進むと。走る人

月輪陵があります。

泉涌寺を鎌倉時代の建保6年(1218年)に月輪大師・俊芿(がちりんだいし・しゅんじょう)が再興した際、後鳥羽上皇土御門上皇順徳上皇後高倉院も俊芿の下で受戒し、貞応3年(1224年)、後堀河天皇は皇室の祈願寺と定めました。

南北朝時代から江戸時代には、天皇など皇室の葬儀も泉涌寺で行なわれました。





この月輪陵には仁知3(1242)年に第87代・四条天皇の陵が営まれたのを初めとして、江戸時代の第108代・御水尾天皇から第120代・仁孝天皇に至るまでの天皇・皇后・親王などの二十五陵、五灰塚、九墓が営まれている天皇家最大の陵墓である。また月輪陵の背後の山腹には、南に第121代 孝明天皇の後月輪東山陵、北に英照皇太后の後月輪東北陵が築かれています。




第87代 四條天皇 [月輪陵] 在位1232〜1242秀仁

後堀河天皇の第1皇子。父の譲位をうけ2歳で即位。六波羅探題が整備され,御成敗式目の制定などで鎌倉幕府体制が強化され,朝廷監視が強まる。

第108代 後水尾天皇 [月輪陵] 1611〜1629政仁

後陽成天皇の第3皇子。1600年(慶長5)親王宣下、1610年元服、翌年16歳で即位。1620年(元和6)2代将軍徳川秀忠の娘和子を女御とし、1624年(寛永1)皇后宣下して中宮に冊立。武家出身の中宮は、平清盛の娘徳子(建礼門院)以来の異例のできごとであった。こうした幕権を背景とした徳川氏の朝廷抑圧は、「禁中並公家諸法度」の制定や、紫衣事件などを通してしだいに激しくなっていった。これを不満として、1629年わずか7歳の興子内親王(明正天皇)に位を譲り、自らは院政を敷いた。

第109代 明正天皇 [月輪陵] 1629〜1643興子

女帝。後水尾天皇の第二皇女として生まれる。母は徳川秀忠の娘東福門院和子。1629年(寛永6)、紫衣事件に代表されるような多年にわたる幕府の干渉や圧迫に抗議して、病身を理由に後水尾天皇が突然譲位。皇子が早世のため、わずか7歳で践祚、翌30年9月12日に即位。幼少でもあり政務の実権は父の上皇にあったが、900年ぶりの女帝が再現された。在位14年ののち弟の後光明天皇に譲位した。

第110代 後光明天皇 [月輪陵] 1643〜1654紹仁

後水尾天皇の子。実母は贈左大臣園基任の女壬生院光子。養母は徳川2代将軍秀忠の女東福門院和子。先帝たる姉明正天皇の譲を受けて1643年(寛永20)位につき、承応3年9月20日崩御。その子に孝子内親王(礼成門院)があったが、男子なくて血統は断絶し、皇統は結局この天皇の弟霊元天皇が猶子として受け継ぎ、その流れがのちに存続することになった。

第111代 後西天皇 [月輪陵] 1655〜1663良仁

幼称は秀宮。後水尾天皇の第7皇子。母は藤原隆子(逢春門院)。中宮徳川和子を養母とする。寛永14年11月16日降誕。高松宮明子女王を室としていったん高松宮家を継いだが、後光明天皇の没後に皇嗣がなかったので、1654年(承応3)11月28日践祚、翌々年即位。1663年(寛文3)1月26日霊元天皇に譲位。貞享2年2月22日没。

第112代 霊元天皇 [月輪陵] 1663〜1687織仁

後水尾天皇の第19皇子。母は藤原国子(新広義門院)。異母兄後西天皇の譲位をうけて10歳で即位。幕府は4代将軍徳川家綱,5代綱吉の時代にあたる。貞享4年譲位,その後東山・中御門天皇の2代46年間院政をおこなう。和歌や漢詩,書道,絵画をよくした。享保17年8月6日死去。79歳。

第113代 東山天皇 [月輪陵] 1687〜1709朝仁

霊元天皇の第4皇子。1682年(天和2)父天皇の強い希望により儲君(ちよくん)に治定,翌年皇太子となり,ついで87年(貞享4)践祚。立太子の儀は300余年間の中絶を復活したものであり,儲君治定は立太子以前に皇嗣の身分を確定しておく必要から始められた新儀である。在位の間,幕府では将軍徳川綱吉が皇室の尊重に努めたので,大嘗会をはじめ新嘗会,賀茂祭などの朝儀が幕府の賛助によって再興を見,御料も1万石が増献された。

第114代 中御門天皇 [月輪陵] 1709〜1735慶仁

東山天皇の第5皇子。母は藤原賀子(新崇賢門院)。父の譲位をうけて即位するが,父の代に復活した大嘗(だいじょう)祭はまた中止となる。幕府は6代将軍徳川家宣(いえのぶ),7代家継(いえつぐ),8代吉宗の時代。弟直仁(なおひと)親王に閑院宮家を創立させた。元文2年4月11日死去

第115代 櫻町天皇 [月輪陵] 1735〜1747昭仁

第114代中御門天皇の第1皇子。生母は新中和門院尚子(近衛家煕の女)。1728年(享保13)立太子。35年3月父中御門天皇の譲りを受けて践祚。38年(元文3)11月19日大嘗会を挙行。大嘗会は、祖父東山天皇のとき1687年(貞享4)に、後土御門天皇の1466年(文正1)以来の旧儀を復興したが、父中御門天皇のとき中絶したのを再興したもので、この後は定例となった。1747年(延享4)第1皇子遐仁(桃園天皇)に譲位。

第116代 桃園天皇 [月輪陵] 1747〜1762 遐仁

桜町天皇の第1皇子。生母は開明門院(姉小路実武の女定子)、嫡母は青綺門院(桜町天皇女御)。1747年(延享4)3月立太子、5月受禅、9月即位。宝暦12年7月22日没。22歳。15年余りの在位中の後半に、竹内式部のいわゆる宝暦事件(1758)が起きた。宝暦事件は王政復古運動の暁鐘といわれる。廷臣らから少年時代以来賢明さを期待されていた天皇は、式部の説による神書=『日本書紀』の進講を近習の徳大寺公城らから受けたが、この動きを危険視した前関白一条道香らは青綺門院に働きかけ、近臣らを処罰して天皇の側近から一掃した。

第117代 後櫻町天皇 [月輪陵] 1762〜1771智子

日本最後の女帝。名は智子。幼称は以茶宮(いさのみや)、のち緋宮。桜町天皇の第2皇女。母は皇太后舎子(青綺門院)。元文5年8月3日降誕。1762年(宝暦12)桃園天皇没後、皇嗣幼少のため7月27日践祚、翌年11月27日即位。70年(明和7)11月後桃園天皇に譲位。

第118代 後桃園天皇 [月輪陵] 1771〜1779英仁

桃園天皇の第1皇子。母は藤原富子(恭礼門院)。伯母の後桜町天皇の譲位をうけて13歳で即位。幕府は10代将軍徳川家治の時代。在位10年皇嗣をきめないまま,安永8年10月29日死去。22歳。

第119代 光格天皇 [後月輪陵] 1780〜1817師仁

閑院宮典仁親王の第6王子。皇子のない後桃園天皇が皇嗣をきめず急逝したため,9歳で皇位をついだ。在位38年,譲位後は院政を23年間おこなう。寛政元年父典仁へ太上天皇の尊号をおくろうとして,老中松平定信に阻止された(尊号一件)。この事件は事にあずかった廷臣の処罰によって落着したが,その政治的波紋は長く尾をひき,後年尊王運動の一誘因となった。

第120代 仁孝天皇 [後月輪陵] 1817〜1846恵仁

光格天皇の第6皇子。母は藤原〓子(東京極院勧修寺)。父の譲位をうけて即位。父が院政をおこなう。幕府は11代将軍徳川家斉,12代家慶の時代。学問をこのみ,父の発意による公家子弟の教育機関である学習所(のちの学習院)創設に着手した。弘化3年1月26日死去。47歳。

陽光太上天皇 [月輪陵]

室町時代の皇族。第106代 正親町天皇の第一皇子、後陽成天皇の父、母は典侍藤原房子。名は誠仁。右大臣織田信長の猶子となるが、本能寺の変により信長が歿したので難を避け、宮中に帰還。和歌に秀で、尊鎮流の書を能くし、楽を好んだ。天正14年(1586)崩御、34歳。遺児である和仁親王が皇位につくと(第107代 後陽成天皇)、天皇の実父として太上天皇の尊号を追贈された。追号は陽光院である。 今日の皇室は、誠仁親王の男系子孫にあたる


後水尾天皇皇后和子 [月輪陵]
霊元天皇皇后房子 [月輪陵]
東山天皇皇后幸子女王 [月輪陵]
中御門天皇女御贈皇太后尚子 [月輪陵]
櫻町天皇女御尊称皇太后舎子 [月輪陵]
桃園天皇女御尊称皇太后富子 [月輪陵]
後桃園天皇女御尊称皇太后維子 [月輪陵]
光格天皇皇后欣子内親王 [後月輪陵]
仁孝天皇女御贈皇后繋子 [後月輪陵]
仁孝天皇女御尊称皇太后祺子 [後月輪陵]

第103代 後土御門天皇 [灰塚] 
第104代 後柏原天皇 [灰塚] 
第105代 後奈良天皇 [灰塚] 
第106代 正親町天皇 [灰塚] 
第107代 後陽成天皇 [灰塚] 

光格天皇皇子温仁親王 [墓]
光格天皇皇子悦仁親王 [墓]
仁孝天皇皇子安仁親王 [墓]
陽光太上天皇妃晴子 [墓]
後陽成天皇女御中和門院藤原前子 [墓]
後水尾天皇後宮壬生院藤原光子 [墓]
後水尾天皇後宮逢春門院藤原隆子 [墓]
後水尾天皇後宮新広廣門院藤原國子 [墓]
仁孝天皇後宮新待賢門院藤原雅子 [墓]


🙏







月輪陵の脇に道が続きますビックリマーク



開けて進みます。走る人



月輪陵に沿って。走る人



右の階段は、雲龍院へ抜けれます。



月輪陵の内部が見えますラブラブラブ




配置はよくわかりませんが。。。💦



天皇陵の玉手箱やぁ〜ラブプンプンラブ

まとめて🙏



奥へ進みます。走る人

つづく。














see you again 👋

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