二條天皇陵 香隆寺陵から平野神社の前を通過走る人



衣笠の住宅街。



到着。





第65代 花山天皇 紙屋川上陵

京都市北区衣笠北高橋町



参道。



在位 984年(永観2年)〜986年(寛和2年)

諱は、師貞(もろさだ)。

円融(えんゆう)天皇の禅を受けて即位。藤原頼忠(よりただ)が関白となったが、外戚(がいせき)でなかったことから実権をもたず、外戚の藤原義懐(よしちか)と惟成(これしげ)を重用。饗宴(きょうえん)の禁制を布告して宮廷貴族社会の統制、引締めを図り、902年(延喜2)に出されて以来布告されていなかった荘園(しょうえん)整理令を久々に布告するなど、革新的な政治路線を打ち出した。この荘園整理令は、受領(ずりょう)らの間で高まってきていた荘園整理の気運を政策化したもので、以後頻出する整理令の嚆矢(こうし)であった。花山朝においてはかく政治改革が企図されたが、後宮の寵姫(ちょうき)忯子(きし)(藤原為光(ためみつ)の女)の死を悲しんでいるおり、藤原道兼(みちかね)の偽計に陥り出家し、2年足らずで次の一条朝となった。退位後は仏事や風流をこととし、和歌をよくした。『拾遺和歌集』の撰者(せんじゃ)に擬せられ、『花山院御集』も存したが散逸。996年(長徳2)誤解により藤原伊周(これちか)の従者に射られ、これがもとで伊周は大宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷された。

粉河・熊野巡歴のことなどから,後世では西国巡礼の祖とされる。



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衣笠の住宅地の中です。びっくり












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