龍安寺から等持院の前を。走る人



この右の壁際の細道を進みます。





到着。

京都市北区平野八丁柳町26



第78代 二條天皇陵 香隆寺陵。



参道。



在位 1158年(保元3年)〜1165年(永万1年)

諱は、守仁(もりひと)。

後白河(ごしらかわ)天皇の第一皇子。母は藤原経実(つねざね)の娘懿子(いし)(源有仁(ありひと)の養女となる)。近衛(このえ)天皇が後嗣(こうし)の決まらないまま早世したとき、祖父鳥羽(とば)上皇、養母美福門院(びふくもんいん)(藤原得子(とくし))、関白藤原忠通(ただみち)らは、守仁を皇位につけようと画策した。しかし、父雅仁(まさひと)を差し置いて実現できず、1155年(久寿2)その即位(後白河天皇)と同時に皇太子となり、保元(ほうげん)の乱が後白河天皇方の勝利に終わると、父の譲位によって58年(保元3)即位した。しかし、後白河上皇、信西(しんぜい)らの院政派と二条天皇らの親政派との併立は平治(へいじ)の乱に発展していった。65年(永万1)6月皇子順仁(のぶひと)親王に譲位し(六条(ろくじょう)天皇)、7月28日死去。


保元の乱

皇位継承問題や摂関家の内紛により、朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分かれ衝突。


平治の乱

保元の乱後、後白河上皇の寵臣藤原通憲と結んだ平清盛を打倒しようとして、源義朝が通憲の対立者藤原信頼と結んで平治元年(一一五九)に挙兵した内乱。後白河上皇を幽閉し、通憲を殺害したが清盛に敗れ、義朝・信頼は殺された。源氏の勢力は衰退し、平氏政権が出現した。



🙏



街の真ん中とは思えませんねぇ。














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