禎子内親王 円乗寺東陵の北側に参道があります。



走る人



山登りだぁ。走る人





頂上近い。。。



見えてきました。





左右に碑がたってますびっくり

🙏


第66代 一条天皇 圓融寺北陵。

第73代 堀河天皇 後圓教寺陵。


京都市右京区 龍安寺御陵ノ下町13


第66代 一条天皇

在位 986年(寛和2年)〜1011年(寛弘8年)

諱は懐仁(やすひと)。

平安中期の天皇。円融天皇の第1皇子で母は藤原兼家の娘の女御詮子(東三条院)。25年間の在位は平安期では醍醐天皇に次ぐ長さ。5歳で従兄の花山天皇の皇太子となり,2年後に即位し,外祖父の兼家が摂政となった。兼家のあと子の道隆,道兼が摂関となったがいずれも短期で死去,道長が姉詮子の後押し(渋る天皇の夜の御殿にまで入って涙ながらに訴えたという)で権力の座についた。長保2(1000)年,中宮に道隆の娘の定子がいたが道長はこれを皇后とし,娘の彰子を入れて中宮とし一帝二后という前例のないことを現出させた。彰子から後一条,後朱雀両天皇が生まれた。一条天皇は道長と協調して政治を行ったといわれるが,除目などでは道長の専権は著しかった。天皇自身温雅な性格で才学豊かで笛の名手であり,それを反映して文人,貴族,僧,武士など各界で人材が輩出した。定子,彰子に仕えた清少納言紫式部をはじめ才媛が出て王朝文学を開花させたのも一条朝である。病を得て寛弘8(1011)年三条天皇に譲位


第73代 堀河天皇

在位 1087年(応徳3年)〜1107年(嘉承2年)

諱は、善仁(たるひと)。

平安後期の天皇。白河(しらかわ)天皇の第2皇子、母は源顕房(あきふさ)の娘賢子(けんし)(藤原師実(もろざね)の養女となる)。1085年(応徳2)に、後三条(ごさんじょう)天皇の遺子で皇太子であった実仁(さねひと)親王が病死した。白河天皇は、自分の皇子を皇位につける絶好の機会とみて、翌年8歳の善仁親王を皇太子とし、続いて皇位につけた。幼帝のため外祖父(がいそふ)である関白(かんぱく)師実が摂政(せっしょう)となったが、政治的実権は上皇となった白河が握り、院政を行った。大江匡房(まさふさ)は「今の世のことは上皇の御気色を仰ぐべきか」とその日記で評したが、天皇は成人するにつれて上皇と対立するようになっていった。



景色が素晴らしいです。最高ビックリマークビックリマークビックリマーク

御陵のすみの方から人が出て来られましたびっくり

道、あるんや!?衣笠の方から山の中を歩いて来られたと。ここ、晴れたらあべのハルカスまで見えると。ラブラブラブ







龍安寺境内を通って退散。
















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