第69代 後朱雀天皇皇后 禎子内親王 円乗寺東陵のトイ面に御陵が見えます。



第69代 後朱雀天皇 圓乘寺陵

第70代 後冷泉天皇後 圓乘寺陵

第71代 後三条天皇 圓乘寺陵



三御陵が並んでいますラブ

京都市右京区龍安寺御陵ノ下町13


向かって右から、

第69代 後朱雀天皇 圓乘寺陵。🙏

在位 1036年(長元9年)〜1045年(寛徳2年)

諱は敦良。

一条(いちじょう)天皇の第3皇子。母は藤原道長(みちなが)の娘上東門院彰子(じょうとうもんいんしょうし)。当時、政治の主導権は道長から子頼通(よりみち)に引き継がれていたが、摂関家(せっかんけ)の全盛期は過ぎていた。1040年(長久1)に、実施はされなかったらしいが、荘園(しょうえん)整理令を発議、この内容は後の寛徳(かんとく)・延久(えんきゅう)の整理令に継承されるもととなっている。病気により位を子に譲ると(後冷泉(ごれいぜい)天皇)、頼通の反対を押し切って尊仁(たかひと)親王を新帝の皇太弟(こうたいてい)に定め(後の後三条(ごさんじょう)天皇)、院政への道を開いた。寛徳2年1月18日死去。



第70代 後冷泉天皇後 圓乘寺陵。🙏

在位 1045年(寛徳2年)〜1068年(治暦4年)

諱は親仁。

後朱雀(ごすざく)天皇の第1皇子。万寿(まんじゅ)2年8月3日誕生。母は贈皇太后藤原嬉子(きし)(太政(だいじょう)大臣道長の女(むすめ))。1037年(長暦1)8月立太子、45年(寛徳2)4月即位。在位中は藤原氏の摂関政治が盛んで、関白頼通(よりみち)の専権が目だつ。宇治に平等院を建立して優美を尽くした頼通は、67年(治暦3)天皇の行幸を仰いで准三后(じゅさんごう)に叙され、「名は君臣なれど義は父子の如(ごと)し」との勅語を賜るほど強大な権勢を示した。しかし頼通には次代に外戚(がいせき)の地位を維持できない状況のなかで、51年(永承6)には陸奥(むつ)に前九年の役が起こって辺境が動揺、また新立荘園(しょうえん)停止の気運が高まるなど、天皇の治世末期には、全盛を極めた摂関政治にも陰りが生じていた。治暦(じりゃく)4年4月19日没。



第71代 後三条天皇 圓乘寺陵。🙏

在位 1068年(治暦4年)〜1073年(延久4年)

諱は尊仁(たかひと)。

後朱雀(ごすざく)天皇の第2皇子。母は三条天皇皇女陽明門院(ようめいもんいん)禎子内親王。このころまでの天皇は藤原摂関(せっかん)家を外戚(がいせき)としていたから、皇族を母としたのはまれな存在であったが、父の遺言により皇位につくことができた。おもな施策としては以下のとおり。延久(えんきゅう)の荘園(しょうえん)整理令の発布(1069)と、これを実施するための記録荘園券契所(きろくしょうえんけんけいじょ)(記録所)の設置。新たな公定枡(ます)として延久の宣旨(せんじ)枡の指定と、これに基づき荘園・公領を問わず全国的に行う一国平均役の徴収。国衙(こくが)によって作成され、中世における土地の基本台帳となった大田文(おおたぶみ)の作成、全般的にみて藤原氏一族でも反摂関家的立場にあった中流貴族や、受領(ずりょう)層・皇族出身者の登用、成功(じょうごう)や重任(ちょうにん)を抑制しようとする政策などを行った。このような新政策は院政に継承され、中世的な国家体制への出発点ともなった。ただし、即位5年で譲位したことによる院政政治への意図については不明の点が多い。延久5年5月7日死去。



三御陵の様子ラブ



再度、第69代 後朱雀天皇皇后 禎子内親王 円乗寺東陵の前を通って次へ行きます。走る人


















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