嵯峨天皇陵から北嵯峨を歩きます。走る人

 

 

野菜の自販機がありましたびっくり

 

 

のどかな良いところですねぇ。京都市内ですよ〜びっくり

 

 

 こんなところで住みたいなぁ!!

 

 

到着。

京都市右京区北嵯峨朝原山町

 

 

第91代 後宇多天皇 蓮華峯寺陵

 

 

参道を進みます。走る人

 

 

 

 

在位1274年(文永11年)〜1287年(弘安10年)。諱は世仁。大覚寺統ビックリマーク後醍醐天皇の父ラブ

文永・弘安の両役がおき、2度、元の来襲をうける(元寇)。

 

鎌倉中期の天皇。後嵯峨天皇の子には先々代 後深草天皇亀山天皇があり、後嵯峨は弟の亀山を愛した。そのため後深草から亀山への譲位が行われ、さらに亀山の皇太子には後深草の皇子をさしおいて、亀山の皇子世仁(御宇多天皇)が立てられた。文永9(1272)年に後嵯峨が没すると亀山天皇が朝廷の実権を掌握し、親政を開始。2年後に世仁が即位し、御宇多天皇となった。亀山は上皇となって院政を開始するが、後深草上皇はこれに強く反発。ここに後深草系(京都持明院と関係が深かったので持明院統と呼ばれる)と亀山・御宇多系(大覚寺統)の対立を生じた。

後深草上皇は鎌倉幕府に働きかけて、建治1(1275)年に皇子の煕仁親王を皇太子とすることに成功。弘安10(1287)年、御宇多は煕仁親王(伏見天皇)に譲位し、こののち皇統はしばらく持明院統に移る。やがて後宇多の皇子邦治が正安31301)年に即位して94代 後二条天皇になり、後宇多が院政を行った。このときも皇太子の選定をめぐって持明院統と大覚寺統とは激しく対立し、結局持明院統の富仁親王に定まった。対立は大覚寺統の内部にも生じた。後宇多が皇子尊治親王を推したのに対し、亀山は自らの皇子恒明親王を嫡流に擬したのである。嘉元3(1305)年に亀山が、徳治3(1308)年に後二条が没すると、富仁親王が花園天皇となり、尊治親王が皇太子となった。後宇多は父亀山の意向を無視したのである。後宇多は尊治親王にも注文をつけた。尊治はあくまでも一代限りであって、後二条の子邦良が成長したらすべてを邦良に譲るように求めた。文保2(1318)年、後宇多は持明院統の伏見上皇と談合し、尊治親王の即位、邦良の皇太子を実現させた。

尊治は96代 後醍醐天皇となり、後宇多は再び院政を行う。しかし、後醍醐は自ら政治を行うとし、父子は対立するに至る。元亨1(1321)年、ついに後宇多は政務を後醍醐に渡し、天皇親政が実現した。院政時の御所とするなど縁の深かった大覚寺で没す。好学の天皇として有名。

 

 

 

 

 

 

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