嵐山の渡月橋。



天龍寺に到着。



天龍寺 総門。



天龍寺 庫裏。

この日はなんと、午前中は法要?とかで拝観停止とかびっくり


本日の目的はこちらビックリマーク 閉まってますが、庫裏で伺ったら御陵の参拝なら潜って入って良いってことでしたラブふぅ〜。



突き当たりは一般の方の墓地となります。



左へ向かいます。走る人



第88代 後嵯峨天皇 嵯峨南陵。

第90代 亀山天皇 亀山陵。



並立しています。



手前側、第88代 後嵯峨天皇 嵯峨南陵。

後継者を定めず崩御。兄弟間の後継者争いにビックリマーク

在位 1242年〜1246年。諱は邦仁。

誕生は承久の乱の前年。


承久の乱に携わった後鳥羽上皇、順徳上皇、その直系の仲恭天皇までを処分すると、幕府は高倉天皇の子で、後鳥羽の兄を後堀河天皇として即位させた。これ以降、皇位継承にまで幕府の影響力が及ぶこととなる。

ところが後堀河皇統は2代で断絶。幕府は、土御門上皇の子を後嵯峨天皇として即位させた。

その後、後嵯峨皇統は4歳の息子を後深草天皇として即位させ、譲位してしまう。さらに後深草天皇を譲位させ、弟・亀山天皇を即位。後深草天皇に子がいるにもかかわらず、その後継に亀山天皇の2歳の子を即位させたため、後深草天皇は不満を抱えることとなる。

後嵯峨上皇は、利発だった亀山を好み、亀山の系統を直系としたのである。ところが、御嵯峨上皇が後継者を決定せず幕府に一任して崩御したことから天皇の家系がふたつに分裂。後深草の持明院統と、亀山の大覚寺統のそれぞれの家系から交互に天皇を出す「両統迭立」の時代を迎える。



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元弘ビックリマーク

奥側に第90代 亀山天皇 亀山陵。

在位 1260年〜1274年。諱は恒仁。


1268年(文永5年)に高麗から使者が来て、蒙古皇帝フビライハーンからの国書を太宰府に提出。

その国書を鎌倉幕府は朝廷に奏上したが朝廷は返書を出さないことに決定。

その後幕府は西国の御家人らに警戒を呼びかける。朝廷は諸国の寺社に対して「敵国降伏」の祈祷を行うよう命じた。

しかし、ついに1274年(文永11年)10月蒙古の大軍が襲来(文永の役)。

「国難至る」の報は全国にもたらされた。

その功があってか蒙古の兵は撤退。

一方天皇家では、1272年に後嵯峨上皇が没すると兄、後深草上皇を置いて、鎌倉幕府の裁定により亀山天皇がいわゆる「治天の君」となり天皇親政を行った。

1274年に亀山天皇の第2皇子世仁親王(御宇多天皇)に譲位。

しかし、後深草上皇も幕府に積極的に働きかけて1275年に後深草上皇の第2皇子熙仁親王(伏見天皇)を皇太子に立てた。

この後、1287年に伏見天皇が即位して皇位が、「持明院統」に移り優勢になると、亀山上皇は出家した。

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亀山殿造営の際に吉野の桜を嵐山に移植ビックリマーク

春の観光名所で知られる京嵐山の桜。後嵯峨上皇が亀山殿の造営にあたって吉野の桜を移植したのがはじまり。渡月橋は、後嵯峨の子・亀山天皇が舟遊びの際に、橋を「くまなき月の渡るに似る」と言ったことにちなむ。


天龍寺は「亀山殿」の跡地に建つビックリマーク

後嵯峨上皇は小倉山東南の亀山山麓に亀山殿(嵯峨殿)を造営。世界遺産になっている天龍寺は、この亀山殿跡地に建てられた寺院で、後嵯峨天皇の御陵は天龍寺境内にある。子の亀山天皇の追号「亀山院」は、この離宮亀山殿にちなむ。亀山天皇は後嵯峨から伝領し、退位後は仙洞(譲位した天皇の御所)として使用した。
















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