大津市役所北側に碑が立ってました。



国宝 新羅善神堂の鳥居⛩を出ると目の前にラブ



第39代 弘文天皇(大友皇子) 長等山前陵。

在位671〜672





大津市役所から直に行けるようにしていただきたいです。


第38代 天智(てんじ)天皇の嫡皇子。

夫人に藤原鎌足女(かまたりのむすめ)耳面(みみも)刀自がある。671年(天智天皇10)太政(だいじょう)大臣に任ぜられた。最初の太政大臣である。当時皇太弟として大海人(おおあま)皇子(後の天武天皇)があり、天智は自分の死後、この2人の間に皇位の争いが起こるおそれのあることを懸念していたと察せられる。天智は死のすこし前に大海人に譲位を申し出たが、大海人は固辞し、出家して吉野山に入った。671年12月3日天智は崩御し、大友は大津宮で即位したと推測されるが明証はない。1870年(明治3)弘文天皇と追諡(ついし)された。672年(弘文天皇1)6月壬申の乱が起こり、大友は敗れて7月23日に山前(やまさき)で自殺。



🙏



「壬申の乱」

672年(天武天皇元年)、皇室内において「天智天皇」(てんじてんのう)の後継者争いが原因で勃発しました。絶大な権力を誇った天智天皇が崩御すると、皇位継承をめぐって天皇の嫡男・「大友皇子」(おおとものおうじ)と天皇の弟・「大海人皇子」(おおあまのおうじ)が対立。国を二分して戦う、古代における最大の内乱となったのです。壬申の乱の機先を制したのは大海人皇子。東国の豪族などを次々と味方に付け、各地で勝利を収めます。敗れた大友皇子が自害したことで壬申の乱は終結しました。この壬申の乱に勝利を収めた大海人皇子は、「天武天皇」(てんむてんのう)として即位。天皇(個人)を中心とした中央集権的政治構造(皇親政治:こうしんせいじ)を確立し、その後の朝廷政治の基礎を築いたのでした。(ネットより)










see you again 👋

フォローしてね…