正式名は、万寿禅寺。
かつては御所ないに建立されたとのこと。
上が鐘楼、下が門となっています。




京都五山5位‼️




拝観お断りとなっています。
残念ですねぇ。




九条通に面しています。
その九条通の整備で境内が分断されたとか。





Wikipediaから。

万寿寺の起源は、平安時代後期、白河上皇が六条内裏に建てた六条御堂にさかのぼる。『京城万寿禅寺記』などによると、白河天皇の皇女である郁芳門院(媞子内親王)が永長元年(1096年)に数え年21歳で亡くなり、それを悲しんだ天皇が皇女の菩提のために六条御堂を建てた。この六条御堂の所在地について「万寿寺通高倉」とする資料が多いが、『都林泉名勝図会』には「南は六条通、北は六条坊門(今の五条通)、西は東洞院通、東は高倉通」とあり、「万寿寺通高倉」よりはやや南方である。

天皇が出家して上皇となったのも皇女の死がきっかけであったという。この御堂は、鎌倉時代には法然の弟子・湛空1176年-1253年)が住し、湛空から十地覚空に受け継がれた。この頃には天台系浄土教の寺であったと見られる。正嘉年間(1257年-1259年)、十地覚空とその弟子の東山湛照が東福寺の円爾に帰依して臨済宗寺院となり、寺号も万寿禅寺と改めた。弘長元年(1261年)に開堂の儀が行われている。その後、文永10年(1273年)に火災に遭い、元徳2年(1330年)には後宇多院皇女の崇明門院から土地を賜って、六条の旧地のやや北方、高倉通の西、樋口小路(現代の万寿寺通)の南の地点に移転した。付近には下京区万寿寺町、万寿寺中之町の町名が残る。

室町時代には当初は十刹の第4位であったが、後に五山に昇格し、更に京都五山の第5位に数えられたが、永享6年(1434年)の火災後、衰微した。天正年間(1573年1592年)には五山第4位の東福寺の北側にあった三聖寺の隣地に移転した。これは三聖寺の開山が万寿寺と同じ十地覚空と東山湛照であった縁によるものという。

三聖寺は鎌倉時代には禅宗式の大伽藍を持つ有力寺院であったが次第に衰微し、明治6年(1873年)に万寿寺に合併された。明治19年(1886年)には万寿寺が東福寺の塔頭となり、21世紀に至っている。『東福寺誌』によると、明治14年(1881年)に東福寺の仏殿が焼失した際、万寿寺にあった釈迦三尊像を東福寺に移して新しい本尊とした。これが現在東福寺の本堂に安置される本尊釈迦三尊像で、元来は三聖寺に安置されていたものである。このほか、東福寺境内にある愛染堂と仁王門、万寿寺入口にある鐘楼(以上、各重要文化財)ももとは三聖寺の建物であった。昭和10年(1935年)には京都市電東山通九条通の開通により境内が分断され、万寿寺は東福寺の飛び地のような位置に置かれることとなった。





東福寺で見た釈迦三尊像❗️


東福寺の仏殿が焼失して、万寿寺にあった釈迦三尊像を東福寺に御本尊さまとして移したとのことです。


よって、先に東福寺にお参りしたので、万寿寺にもお参りしたことになると言うことです❗️





御朱印いただきました❗️

で、御朱印お願いする時に、東福寺にお参りされましたか?って、聞かれたんや!納得!

基本、御朱印は、お参りしてからいただくものですもんねぇ。

ありがとうございました。



つづく。



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