批評家、随筆家の若松英輔氏は自著『悲しみの秘義』の中でこんなことを書いています。

『哲学の祖と呼ばれるソクラテスは、哲学の極意は、「無知の知」を生きることだと語った。本当に知らない、と心の底から感じ得ることが、哲学の原点だというのである。・・・・・・
哲学を意味するギリシャ語フィロソフィアは「叡知を愛する」ことを意味した。・・・・・・

愛するとは、それが何であるかを断定しないまま、しかし、そこに語りえない意味を感じ続ける営みだとはいえないだろうか。誰かを愛し続けているとき、私たちはその人と生きることの、尽きることない意味を日々、発見しているのではないか。この人を愛している。でも、この人がどんな人か一言でいうことはできない、そう感じるのではないだろうか。
 同質のことは、仕事にもいえる。自分の仕事を愛する人は、その仕事にめぐり会えた幸福を語る一方で、自分がそれを極めることはないだろうことを予感している。仕事は解き明かすことのできない、人生からの意味深い問いかけに映っている』

バラ

「無知の知」を生きることは「人生をまるごと愛すること」なのかもしれません。何も知らない、だからただ、ただ好きなんだ。そういった感覚をもつとき人は心の底から何かを、誰かを愛しているのでしょう。

 しかし私たちは愛すると大抵、愛している対象(人)について全部知りたい、と思ってしまいます。何でもかんでも知ってしまいたい、と。それだけでなく、できるだけ情報を集めたら、全部知った気になります。「わかった」と「悟り」を開いてしまうわけです。これは愛しているのではなく、情報収集しているだけです。

愛するとは絶え間ない行為です。止まってしまったら、愛は死んでしまいます。でも、多くの人は「止まる」ことが大好きなようです。「すべてわかった」と言って、愛する対象を見ることを止め、愛するものを情報として固定してしまうのです。つまり「愛すること」をやめ、判断や評価を下してしまうのです。

 愛するとは意味を感じ続けることです。愛するものが存在し、その存在が日々生み出す意味と価値を感じ続けることです。だから誰かを、何かを本当に愛する人に「わかった」という瞬間は決して訪れないのです。

 そんなふうに「愛してみたい」と思う今日この頃です。