前回、スポーツの一般的な視点から勝利至上主義の前提を否定した。今回は、日本高等学校野球連盟(以下、高野連)が定める『日本学生野球憲章』にも明記されている"教育"の観点から解釈を加える。

 

 

2."教育"の観点から

 

まず、『日本学生野球憲章』が定める学生野球における教育的な意味を確認する。

 

 

    国民が等しく教育を受ける権利をもつことは憲法が保障するところであり、学生野球 

    は、この権利を実現すべき学校教育の一環として位置づけられる。

 

                                                     (前文)

 

 

    学生野球は、教育の一環であり、平和で民主的な人類社会の形成者として必要な資質

    を備えた人間の育成を目的とする。

 

                           (第1章 総則 第2条〈学生野球の基本原理①〉)

 

 

   「第2章 学校教育の一環としての野球部活動」

 

以上が、憲章が定める「教育の一環としての学生野球」の具体的な部分である。この理念に対して批判的な意見があるのは重々承知しているが、別の機会で触れるとして、今回は目をつぶって頂きたい。

 

さて、ここから本題に入る。まず、#1で例示した体罰に関しては、れっきとした犯罪行為であり、問答無用で許されることではない。

 

次に、学生野球に教育的な側面を見出すならば、それを達成するために最も重要なことは"勝利"という1つの目標に向かってチームが一丸となって努力をする過程にあるのではないかと私は考える。

 

その上で学生野球において勝利を目的(目標)として活動することは間違いだという意見に対して、真っ向からノーを突きつけたい。

 

近年よく見かける批判は、勝利至上主義という言葉自体に「勝利こそが最高の形という理念の下で活動する過程には、体罰や特定選手の酷使、非科学的なトレーニング等、古典的な風習が必ず存在している」という拡大解釈によって行われているのだ。

 

つまり、勝利至上主義の本質的問題は、「勝利こそ至高」という理念自体にあるのではなく、勝利を目指す過程で合理性に欠ける、日本特有の悪しき伝統が想起されるという所にあるのだ。

 

このことから、勝利至上主義批判は一見すると先進的な意見に見えるが、実際は「勝利のためには上記の様な古典的なやり方が必要だ」という矛盾を露呈してしまっている、非常に旧来型の思考なのである。

 

そして、教育の一環としての学生野球において、恐れなければいけないのは、結果至上主義である。繰り返すが、学校教育で最も重要なのは、目的・目標を実現することではなく、それを実現するために何が必要か考え、どのように行動するかという過程である。なお、質の高いプロセスの構築においては自主性が最優先されるべきであり、目標の達成を名目にそれが無理に統一されることは望ましくない。

 

勝利至上主義では、勝利こそ至高という理念の下で、選手・チームの目標は必然的に勝利という明確なものになる一方、結果至上主義では結果という個人の尺度によって変化しうる曖昧なものを目指すことになり、その中で過程を質の高いものにすることは難しく、単純に結果ばかりが求められるということに繋がりかねない。これでは、教育がニの次になってしまう。

 

#3へ続く