セザンヌの池に続く小道が同時に展示されている  セザンヌとゴッホの違いについて物のまざなしに記載されているのがおもしろく分析されている  「林檎の入った籠のある静物」のことのようだが  これと同じ光が滑らかな表面をした流体となって、フィンセントの絵の丸天井や果物籠の上を流れていく。 しかし、それはモネのやり方を同じように繰り返しているのではない。リンゴは、全体の効果を変容させる派手な窓の色に呼応している。・・・・・純粋な時間の強度であり、その光が時間のなかの存在になり、マチエールが無形のものになっていくことのうちに、変化が起こっていくのである。そのとき果物のあいだで物は密やかに語りはじめ、輝きの厚みを増していきながら、リンゴの外部に対して開いていく。ここにこそファン・ゴッホの作品とセザンヌの静物画の根本的な違いがあるとわれわれには思われる。セザンヌのリンゴは内側の光から切り離され、世界はその痕跡すら残されたいない。・・・・・

 セザンヌが孤立した肉体や、官能的な結びつきとは無縁のエゴイズムを好むに対して、ファン・ゴッホは世界の真ん中で物が融解したり、物が流出することを好む。

 そういう過程をへてアルルにむかったのは  炸裂する生命に溢れた色を使いながら、形を構成しなおすことが新たな問題として登場したのである。この問いは、燃える太陽にさらされた生命の可能性、自分自身との絆を作り直す可能性、要するに主観性を作り直す可能性を問う手いる。世界はわれわれの内側に入り込み、われわれをみずからの外部へと引き出し、その外部でわれわれを踊らせようとする。そのときわれわれがばらばらに分散し、消失してしまう危険に対して真正面から向き合えるような存在様式を求めて、彼はアルルへと向かう。

 よくそこまで分析できるものだと感心してしまうが、対象がどんなものであれ、つきつめて考えることは必要なのだと思う。そういうものを通り越したところにあらたな世界は開けるのは、天才であれ凡人あれあるような気がする。

 種まく人が 物のまざなしでは黄金色に輝いているのだが 現物はよごれのせいかかなりくすんでみえるのだが何としたことであろうか?