医療も、介護も、障害も、

できない理由はもうたくさんだ!

と思っていた。

どうしたら実現するのかって
考えてはもらえませんか。


民間企業で、利潤追求するために自分が貢献している具体性を証明し続けてきた正社員時代を送ってきた私には、
意味のない時間だけが過ぎていく虚しさと、自分の労力と時間が効果的に使われないまま疲弊していく感覚、
費用対効果のない疲れでビタミンCがどんどん身体から排出されていくような日々の中、もがいていた。眠れない。
眠れないことすら、効率的でないから眠るためだけにどうすればいいか考えたりした。

はっきり言って傲慢だった。

自分だけが苦しいと、
自分ほど八方塞がりな人はいるものかと、
きっと、生意気な口調で
余裕のない顔をしていたんだ。

息子にも、今後の不安をぶつけ、
脅しのようなドロドロした予想図を
とうとうと語った。
毒親だ。

生きていくことの辛さ、
息をすること、
雨をしのげることですら、

期限が迫られるような不安で、
余裕がなかった。

やっと最近、

リスクヘッジしたり
先読みして調整したり、
迷惑かけないことが大前提みたいな
感覚から、

困ったことがあったら都度相談して
できる範囲で対応策を考える とか、
しょうがない とか、
自費なんだ とか、

諦めとも違う、、、
折り合いつけていく。
そういう 福祉の時間の流れというか、
焦ってもしょうがない みたいな感覚に

自分も染まってきているのがわかる。

良し悪しは別として、

ケースバイケースもあるけど、

そういう感覚に浸かると、
あの時、なんで、どーしてって
乖離していた全てのことに
合点が行く。

今は、ゆっくり構えられるようになったからか、一つ一つのことに、感謝することができるようになってきた。

そういえば、ベテランのケアマネさんが、
置かれていた個々の状況により、
スタートが違ったり、心労は変わるって
言ってたっけ。
それぞれ障害の違いが複合してくると
尚更大変さは千差万別なのかも。


それとも、情けは人の為ならず
もしかしたら、
結局自分が困るから
こんなに必死になってるだけなのかも
とか、
世間体やプライドや引け目みたいな
そういうネガティブ要素に縛られてる
だけなのかもとか、、

自分の考え方や感覚や今までの支柱に
迷いが出てきてしまう。

結局のところ、

家族で楽しそうにスポーツしたり
旅行したり、楽しんでる普通の家族が
キラキラして見えるのが今は辛いんです。



でも、そんな悲観的なことばかりの自分も嫌で、堂々としたい、いつか、胸を張って、パパを囲んで笑っている未来を信じていたい。

息子の方が、パパに抱きつくようになってきた様子が、客観的に薄皮一枚回復と捉えられる現実なんじゃないか、そういう小さな発見を糧に一日一日前へ進んでいくしかない。