昨夜もまた1時半に撃沈でした。 アイスダンスを見てたはずなんだけど、記憶がありません。 あーあ。 起きたら、ジャンプの団体銅メダルの涙のインタビューでした。 皆さん、満身創痍の体でほんまによー頑張りましたなぁ。 何かね、もうそういう話を聞くだけであかんのよ。 病気や怪我を抱えどんなに不安か、どんなに辛かったか・・・思うだけでウルウルしちゃうの。 年末からどうしても残しておかなきゃと思うことがあったんだけど、バタバタしてて時間も精神的余裕もなくて先延ばしにしておりました。 竹内のさんの病気の話を聞いて、ようやくUPする気になりました。 ちょっとここから先はヘヴィな内容になるので、辛い話が苦手な方はスルーして下さい。 ただ加藤日登美さんをご存知の方は、是非読んで下さい。 そして、少しでも彼女のことを思い出してやって下さい。 加藤さんは夫が今の大学に赴任したときに、1年生でした。 真面目で不正が許せない一本気な学生でした。 夫と行く美術館の見学会にもよく参加していました。 卒業後は、教員にはならずに一般企業に勤めておりました。 ウチにも2度ほど遊びに来たかしら。 そんな彼女の訃報が昨年の春に届きました。 「まだ若いのに」と、そのとき気持ちを「記事」にもしています。 昨年の秋、ご両親から喪中葉書が届いたので、私達は線香と共に手紙をお送りしたのね。 そしたら、彼女のお母様から丁寧な返事をもらったの。 そこには彼女の闘病生活、最期の様子が書かれていました。 なんと健気に一生懸命生きようとしていたことでしょう。 お母様の手紙より 2010年8月、手術を受け6回の化学療法を仕事を続けながら受けました。 2012年7月、数値が高くなり、再度異なる薬の化学療法を受けることになりました。 前回の時、体力が弱くなり、元気な細胞の力もなくなっていくのを見ていて、母親としてこの治療法には反対でした。 セカンドオピニオンを受けることも話し合いましたが、本人の希望もあり最初に手術をした病院で再度化学療法を受けることになりました。 元気になることを信じ、笑顔で「感謝出来るように頑張る」と言っておりました。 12月頃より少しずつ弱って、仕事も休暇届を出し、家で療養しながら通院していました。 2013年2月14日、通常検査に出掛けましたが、帰宅出来なくなり緊急入院となりました。 3月17日朝7時17分、旅立っていきました。 亡くなる1週間前に緩和病棟に移り、庭に植えられたきんかんの実を鳥が来て啄む様子を見たり、水仙の花のつぼみがふっくりしているのを見たり ボランティアさんの作って下さる野菜スープやコーヒーを飲み、父親に「今日、私とてもリッチな生活をしたよ」と言っておりました。 それから4日後の朝旅立ちました。 たった一人の子供でした。 お母様は彼女のブログも転載して下さっていました。 2012.12.31 入院していた母親が帰って来た。 予定より1週間も早く帰れた。 よかった。(泣 私が入院していた病院と別の病院で自宅を挟んで真逆の場所を行ったり来たり、更に私が退院してからは、少しでも食べられるようにと食事をあれこれ工夫してくれた父親に、とても感謝です。 私は絶対に元気になって親孝行しなきゃ。 来年も毎日感謝して生きよう。 負けずにいよう。 たくさんの励ましの愛をくれた人に、笑顔で「ありがとう」を伝えよう。 ありがとう・・・。 2013.1.7 具合が悪いのが2日続く。 今日は一度も笑ってない気がする。 ただひたすらに涙が出てくる。 泣いたって、何一つ良くなる訳じゃないんだ。 今こそ笑おう、笑うんだ。 元気になったら、たくさんの感謝の涙を流せばいい。 それまで、泣くな、泣くな。 2013.1.9 私の知らないところで、私を思って涙を流して下すった方がいたそうです。 私のことを「凛として病気と闘っている」と言って下さったそうです。 本当に、ありがたいです。 でも、恥ずかしいけど、私は今日もめそめそしています。 泣きたくないのに、涙が止まらないんです。 何で強くなれないんだろう。 座ったりして体を起こしている時間より、ベッドに横になっている時間の方が長くなって来た。 2013.3.8 2月14日からずっと入院をしております。 まだまだ退院は遠いようです。 3月8日が最後のブログになったようです。 本当によく頑張りました。 もっと荒れてもよかったのに、もっとわがままを言ってもよかったのに。 あなたは、最後までいい子ちゃんでしたね。 私にはそれが余計に悲しくて、不憫でならないけど、あなたはいい子でいることを選んだのね? だったら、私の中のあなたは、いつまでもいい子ちゃんのまま残しておきましょう。 |