自分が原理を中心として比較することができるので

今まで生き残ってこれたでしょう、

下手をすると、どこかのてっぺんからヒューと吹き飛ばされてしまうのです。

てっぺんに登りつけて良かったと考えるなというのです。

 

原理を分かっていなければ、崩れていくのです。

 

神霊の役事は瞬間に過ぎません。それを重要視するなというのです。

 

原理です。原理の「み言」です。分かりますか。

先生が、複雑な霊界の働きの中で、生き残った「戦勝記」です。

「記念記」だというのです。「記念 戦勝記」です。

 

後代の人たちが引っかからないように、そのように複雑な世界をどのように、

この世界の空間にすべてのサタンたちがうじゃうじゃしているのを

どうやって突き抜けて行きますか?

 

個人完成をどのようにして、

家庭・氏族・民族・国家完成の解放圏をどのようにして、

神様を中心として解放・釈放圏がどのようになされるのか

ということが全部あるのですが、

絹糸が全部もつれて絡み合っているのを、

端っこをもって、

すーと引っ張っていって全部ほどくことが簡単にできますか? 

 

そのようなものだというのです。

 

文鮮明ムン ソンミョン先生 み言選集 第506巻

2005.09.05 アメリカ アラスカ コディアック ノースガーデン 

「個人主義と家庭主義」より

 

昔、清平の誰かが、お酒はサタンのおしっこを飲むようなものだ!

と言ったのを聞いた記憶があります。

 

心情的な意味で言えば・・・、霊的に見れば・・・、という意味だと思います。

 

そのとおりであると思う気持ちもあります・・・。

 

酒がからんだ、あるいは、酒が原因となった、犯罪、事件、堕落問題・・・

などが数限りないことが分かるからですね・・・。

 

でも、多くの人が、それを愛し、生きがいや、息抜きや、人との出会いや

交わりの手段として活用しているものを・・・

 

サタンの・・・、と指摘するのは、よく分からないで聞く人には、

どのように聞こえるのでしょうね。

 

でも、大事なことなので、そのように語られたのだと思います。

 

『真の父母論』についても、これを信じている人、信じたいと思っている人、

さらに、これを愛している人もいることは分かっています。

 

でも、事実は事実として言わなければならないので・・・

 

『真の父母論』は、間違いである・・・

 

しかも、最悪のでたらめである!

 

そして、神様とアボジが、心から嫌悪感を感じているものである!!

 

と言わざるを得ない分けですね。

 

 

 

・・・では、この真実を分かる為に・・・

 

私たちに、なにが不足しているのか・・・

 

あるいは、分かる為には、何が必要なのか・・・

 

それは、一言で言えば、アボジに対する愛情ですね!

 

アボジの一つ一つの「み言」は、自分の思いからでたのではなく、

神様の語りたい「真実」である。

 

そして、

 

アボジの「なされたこと」、アボジのなされたことは、

間違いなどではなく、一つ一つ、神様の願いをかなえようと、

真実であり、真剣であり、神様の御心であった。

 

このアボジの「み言」と「歩み」を信じる心がしっかりあれば・・・、

 

瞬時に、真の父母論の異常性を感知できるのです・・・。

 

逆に言えば、アボジの「み言」は間違いだらけ・・・

アボジの歩みは、間違いだらけ・・・

 

としなければ成立しないのが、真の父母論なわけですね・・・。

 

『良心』と『本心』について考えてみたいと思います。

 

この二つを同じような意味で使われる場合と、

この二つを区別して使う場合があります・・・。

 

まず、区別するとどのようになるのか、

 

厳密な意味は何であるのか?

 

ある程度、原理をしっかり学んだ人には、当たり前のことかもしれませんが

説明しようと思います。

 

『良心』というのは、「自分が善だと思うこと」を中心として、動機としている、

心をいいます。

 

これに対して、『本心』というのは、「神様の絶対的価値」を中心として、動機としている、

心をいうのです。

 

ですので、『本心』は、皆が同一の基準、方向を持つことができ、

 

もし、皆が『本心』の願い通りに、感じ、行動するならば、

矛盾や対立のない世の中が実現します・・・、私達が願っている地上天国が実現します・・・。

 

問題は、『良心』と『本心』が一致していない場合が往々にしてあるということです。

 

例えば、多くのクリスチャンは、

良心で

「イエス様の十字架で救いは完成している。統一原理は、異端の間違った教えである」

と、それが正しい考えであると信じているのです。

 

人間は、自分が、これをしたらダメなのに・・・、と自分でも悪いと思っていることは、

反省したり、悔い改めしたり、できるのですが・・・

 

良心的に生きて、自分が正しく生きていると自信のある人は、

 

それを反省することは簡単ではないんですね・・・。

 

『真の父母論』も良心から出てきて、良心で信られ、良心で信じよう!

 

と、そのようなものであるならば・・・、それを否定するのが簡単ではないということです。

 

良心では、それが正しい! と思って出発しているのですが・・・

 

『本心』の声はどうなのでしょうか?

 

オモニの本心・・・

「・・・どうか、これを信じないで下さい・・・

・・・どうか、私が勘違いしていることを気づいてください・・・

・・・どうか、私に勘違いしていることを気づかせてください・・・

・・・晩年に汚点を残さない私に救ってください・・・」

 

という声が、私には、聞こえているのですが・・・

 

『本心』に耳を傾けてくださいね・・・。

そして、本当の親孝行を・・・

 

まず、チェックすべきは、自分がアボジとその「み言」を

どのくらい愛し、信じているか、だと思います・・・。

 

オモニを見る時も・・・、アボジがオモニに対して、

投入された愛情があるわけです・・・。

 

なにも分からないオモニに無限に、投入され、忘れ、また、

投入されてきた、もしかした、今も、霊界で、オモニに対して投入されている

アボジの心情、アボジの愛と一つとなってオモニを愛するべきではないでしょうか?

 

アボジを通してオモニを愛する! ということも大切なのかもしれませんね・・・。

 

 

 

『男根石 女根石 奉献式』

・・・

ですから今までの救援摂理は、アダムを再創造する歴史だよ。

神様の息子を見つけられなかったんだね。4000年ぶりに現れたイエスは神様の息子なんだね。独生子なんだよ。血統を清めて現れたんだね。独生子と言うのは、血統を清めて現れたからなんだね。原理の「み言」を聞いてみると血統を清めなければならないという内容がでてくるね。

血統を清めたその男性が、アダムを見本としてエバを造ったので、女性に会って血筋を清めてあげないといけないんだね。

アダムがエバの言葉を聞いて血統を汚したんだから、エバを絶対服従するようにして血統を清めないといけないんだね。

文鮮明ムン ソンミョン先生マルスム選集 325巻

2000.06.30(金)韓国 ソウル 龍山 漢南国際研修院

 

 

 

『私が初めから、メシヤとなる道が、

完成したアダムが、エバを完成させることだと分かったならば、

そして、それがこんなにも難しすぎることだと分かっていたなら、

メシヤの責任を辞退していただろう。』

 

とお話になられました。

そんなことも分からずに、

メシヤの責任を引き受けたと言われました。

アボニムは、白紙状態にあるオモニを

娘のように育てなければなりませんでした。

史 吉子(サ キルジャ)(劉 孝元:ユ ヒョオン 元協会長夫人)

『原理に関する「み言」の証』  333頁 (成和出版社 2012.08.08)

 

 

「メシヤと我々」より 
神を失った人間

 この世に住んでいる一般の人は、メシヤが必要であることを知る者はほとんどいません。
・・・


サタンを追い出すメシヤ

・・・
だからこのメシヤというものは、

こういう天宙の中心の核として来られるお方は、

男で来るか、女で来るかということが問題だよ。

 男に聞けば「はーい、男で来る」と言う。

女に聞けば「はーい、女で来る」と言う。

なぜか? 男は実際何もやるものがない。

体としては何もやるものがない。

女は、体としてはお乳をやるんだね。

子供に飲ませ、食べさせるんだけれど、

男には何もやるものがない。何かあるの? 

そういう立場から見た場合に、男より女? 

男のメシヤが来たらいいか、女のメシヤが来たらいいか?

 では、女のメシヤが来たらいいの? 

日本の場合には天照大神は女か男か? 

日本人はよく知っているんじゃないの?(女です)。

日本人から言えば女で来たらいいじゃないの? 

これはおもしろい。

世界中でそんな国はたくさんはない。

そういう血統を受け継いだから、

日本人は女といえばもてはやされるよ。

男で来たらいいか? 

女で来たらいいか? 

 

・・・

 

 神は原理の神だ。神がメシヤをよこすには、原理に従ってよこすしかない。

まずもって、そのメシヤたる者は原理を中心として完成した者である。

原理を、専門的な原理を中心とした者でなければならない。

そうなるんですよ。

 

・・・

 

原因の出発点は男から、

神様から見ても、男を中心としなければ原因の主体性を立たすことができない。

男を中心としなければならない結果になっているから、

男のメシヤが来なければならない。

女は何か? 畑だ。

女が主体にはなりません。

男が主体である。

先にあった。人間の生まれるその種は女にあるんじゃない。

男が先にある。

だから原理的に見た場合には、男が主体者にならなければならない。

・・・

 

だからメシヤは神様も仕方なしに、男をよこさなければならないし、

人も男を望まなければならない。だから男が来るんだ。

男が来る。男のメシヤは何を求めてくるのか問題である。

何を求めて来る? 女を求めて来る。

 

・・・

 

 だからメシヤは、この地上に来られる時には堂々たる男として来られる。

天下いずこに来られてもそれに逆らう者なし。

神様もほれた男である。

歴史的聖人も、それは希望の的の男である。

これは万民、世界三十四億の現世の人間は、

その姿に一度会い、一度話し、

共に行動したいというような望みの的のお方である。

未来はそこから新しい尺度が始まる、出発の基点である。

それがあって、すべての価値が生まれてくる。

その基準あってすべてがその中心を取るようになる。

それが確立するにしたがって、勝利が決定されてくる。

・・・

日本語による「み言」『メシヤと我々』
     1972年4月23日 日本 東京教会
 

 

 

先生は、それが分かるので、

オテギョン(真の父母論を作った人)この野郎は、

下手をすれば統一教会を滅ぼすと見るんだね。

だから、イーストガーデンから追い出したんだが、

追い出したのに出て行ったと思ったら、

また、戻って来たんだよ。

『文鮮明先生御言選集』第399巻213頁 

2002.12.23 イーストガーデンにて 

 

 

先生はいい加減に生きないんですね。

オモニがしようというままにしないんだね。

神様がしようという通りするんです。

オモニが神様がしようという通り、すべてのことが出来ていないので、オモニを前に立てることができないんだね。

嫌だとしてもオモニも父母様(アボジのこと)を前に立てておいて、こうしよう、ああしようとしないとダメです、

自分たちだけで、こうしよう、ああしようとしたら原則が狂ってしまうんだね。

「み言」選集 506巻 2005.09.05 アラスカ

 

統一教会に中心があるの? 

家庭的中心がある? 

 

先生も、いまだにオモニを中心として越える峠を越える為に、死ぬほど我慢してるんだ。

 

目玉が飛び出るほどの難しさがあっても舌を噛んで(歯を食いしばって)何も言わないんだね。

 

一人の女性を育てて、理想的な妻にするのが、世界統一より、もっと難しいのだよ。

 

『宇宙主管を願う前に自己主管を完成せよ』ということよりも、もっと難しいんだね。

 

それをオモニが知らないんだね。

今、聞いているだろうね。

今から分からないとね。

 

何日か前に言ったよ、

「先生は原理的にしますが、私はそうはしません。」

そんなこというんだよ。

 

これ以上恐ろしい言葉がどこにあるの?

 

文鮮明(ムン ソンミョン)先生「み言」選集 488巻

『摂理的蕩減時代と祖国光復』

2005.02.21(月)韓国 ソウル 龍山(ヨンサン)

     漢南(ハンナム)国際研修院

 

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