自分が原理を中心として比較することができるので

今まで生き残ってこれたでしょう、

下手をすると、どこかのてっぺんからヒューと吹き飛ばされてしまうのです。

てっぺんに登りつけて良かったと考えるなというのです。

 

原理を分かっていなければ、崩れていくのです。

 

神霊の役事は瞬間に過ぎません。それを重要視するなというのです。

 

原理です。原理の「み言」です。分かりますか。

先生が、複雑な霊界の働きの中で、生き残った「戦勝記」です。

「記念記」だというのです。「記念 戦勝記」です。

 

後代の人たちが引っかからないように、そのように複雑な世界をどのように、

この世界の空間にすべてのサタンたちがうじゃうじゃしているのを

どうやって突き抜けて行きますか?

 

個人完成をどのようにして、

家庭・氏族・民族・国家完成の解放圏をどのようにして、

神様を中心として解放・釈放圏がどのようになされるのか

ということが全部あるのですが、

絹糸が全部もつれて絡み合っているのを、

端っこをもって、

すーと引っ張っていって全部ほどくことが簡単にできますか? 

 

そのようなものだというのです。

 

文鮮明ムン ソンミョン先生 み言選集 第506巻

2005.09.05 アメリカ アラスカ コディアック ノースガーデン 

「個人主義と家庭主義」より

 

アボジ(文鮮明ムン ソンミョン 真のお父様:以下 アボジ)を

信仰するということは、どういうことなのだろうか?

 

と考えてみました・・・。

 

ここで、メシヤとは何なのか?

 

ということをまず考えてみたいと思います。

 

堕落人間には、出会えない神様と出会える人間がメシヤなのでしょうか?

 

確かに、イエス様やアボジは、神様と直接に出会われた方であるのです・・・。

 

しかし、それならば、モーセも神様と対話しながら、神様と出会いながら、

イスラエル民族を導いたと聖書には書いてあります・・・。

 

また、預言者たちも神様の指示を聞きながら・・・活動したわけです。

 

そして、イエス様、以後のクリスチャンの中には、もしかした神様を実感した

人たちもいたのかもしれません・・・。

 

そして、統一原理を学び、歩んできた統一の信者さんたちの中にも、神様と出会った

人たちがいるのかもしれません・・・。

 

いったい、モーセとメシヤの違いとはなんでしょうか?

 

・・・それは、モーセには原罪があり、メシヤには原罪がないってことだよ!!!

 

と原理を理解している人は答えるのかもしれませんね・・・。

 

それでは、原罪がある、原罪がない、ということは、実際には、どんな違いとして

 

現れているのですか?

 

と質問されると、それに、明確な答えを与えるのは簡単ではないのかもしれません・・・。

 

・・・とりあえず・・・夕方の空・・・です・・・

 

 

ところどころ、明るい雲があって、面白い空模様でした・・・。

同じような写真をもう一枚・・・

 

 

・・・まあ、拡大しただけですね・・・

 

でも、別々に撮影はしたんですよ・・・。

 

それで、メシヤとモーセの根本的な違い・・・

 

原罪のある、なし、はどのような具体的な違いとして現れるのか?

 

を考えていくと・・・

 

ヒントとなるのは、「み言」で、養子、庶子、実子・・・

 

という表現があります。

 

これは、親との心情的な距離の近さに関係していると思うわけです・・・。

 

堕落人間では、越えられない、目には見えない、心情の壁を越えて・・・

 

神様の心情の中心まで、訪ねていくことができ、

そこで、心情と心情が交わることができる・・・

 

のが、メシヤではないかと思うわけです・・・。

 

・・・だから、アボジが、神様の心情にある深い悲しみに触れて、

何週間も泣き続けた・・・

 

ということが、これこそ、アボジがメシヤである一つの大きな証であると

私は思うわけですね・・・。

 

・・・まあ、逆に言えば・・・

私達も、原罪を清算していただいた・・・というならば・・・

 

そんな、神様の心情の中心にある悲しみに触れて、

神様と抱き合って泣くような体験をしなくてはならない・・・

ということになるのかもしれませんね・・・。

 

・・・この「泣く」ということもいくつかの次元があるように

思うものです。

 

まず、信仰の道を歩んでいくと・・・、入ってみると・・・

 

人によっては、我知らず涙が流れてくる・・・

 

と病気ではないですよ! そんな体験をする人が多いようです・・・

 

もしかしたら、先祖が嬉しくて泣いているのか?

 

あるいは、神様が待っていたよ! と喜んで泣いているのが

伝わるのか分かりませんが・・・。

 

ともかく、「我知らず泣く」「よく分からないけど涙が流れる・・・」

 

という体験をしたりするものですね・・・。

 

その次は、聖歌を歌って神様の愛を感じたり・・・、

 

いろんな時に聖霊に満たされたりして、

 

「感動の涙」「感謝の涙」「悔い改めの涙」「喜びの涙」

 

などを流す体験をするようになると思います・・・。

 

変なたとえですが・・・

 

これらは、太陽があるとしたら、

 

その太陽の熱を受け、あるいは、太陽の光を受けて・・・

 

それに反応しているような・・・状態なわけです・・・

 

別の言い方をすれば・・・、神様から愛を受けている・・・

 

ということです。

 

ちなみに、この段階は、従来のクリスチャンの多くの方々も

体験していることなわけですね・・・。

 

・・・ひょっとすると、家庭連合のメンバーたちよりも・・・、

たくさん神様の愛を実感しているクリスチャンの人たちがいるかもしれません・・・。

 

だから、純福音教会なども・・・何十万人でしったけ? 一つの教会で・・・

そんな世界一のメガチャーチができたりするのかもしれませんね・・・。

 

メシヤに侍る我々は、さらなる段階を目指さないとならないのではないでしょうか?

 

・・・それは、太陽の中心に突入するってことです!!!

 

神様が与えて下さる愛と恵みに感謝するだけではなくて・・・

その神様の深い心情の奥までたずねていくってことなんです・・・。

 

神様が下さる愛と恵みに喜ぶだけの信仰ではなくて・・・

 

神様の心情の根本にある深い悲しみ、難しい事情を

私のものとして、神様の重荷を自分の重荷として

感じ、背負っていくような段階が、あるのでは?

 

ということです。

 

それが、メシヤの心情姿勢ではないかと思うからです・・・。

 

さすがに、このような心情で生きているクリスチャンの方は、

 

そんなに多くはないと思います・・・。

 

・・・その神様の抱えておられる苦労の大きさを実感するほど・・・

 

自分自身の苦労がとても小さく感じるようになるものです・・・。

 

アボジが、監獄に行きながらも、神様、大丈夫です!!!

心配しないでください!

 

と自分のことよりも神様の心情を第一に思われたのも、

神様の心情に誰よりも通じていたからだと思うのです・・・。

 

・・・

 

そんなアボジが、神様のオモニ(韓鶴子 真のお母様:以下 オモニ)に

対する心情、オモニを見つめる神様の心情が分からなかったと思いますか?

 

ということなんですね・・・。

 

下の東京で語られたアボジの「メシヤと我々」は、

1972年に語られたものです・・・。

 

1960年に聖婚されてから・・・12年たっているわけです・・・。

 

オモニがただ一人の特別な生まれであるなら・・・

 

当然、それが分かり、そのような「み言」を語られたはずなのです・・・

 

ところが、

 

メシヤは、女ではなく、男だ!

 

と明確に語られたということは、

 

オモニがそのような生まれではなかったということです。

 

その後も、新婦は、男性のメシヤに絶対信仰して血統を清めて

もらうんだよ!

 

と何回も語られているわけです。

 

2000年を過ぎても、それを、語られているということは・・・、

 

オモニに悟って欲しいと思われていたのかもしれませんね・・・。

 

今、オモニの勘違いを正してあげるべき我々が、それに同調する立場に

なってしまっています・・・。

 

清平がおかしくなり・・・、それに、日本本部も同調していっています・・・。

 

アボジが、こんなに難しいなら、結婚しなければ良かった!

 

ととんでもない発言をされたのも無理はないかな・・・

 

と納得するようなおかしな状況になっているんですね・・・。

 

・・・大きな分派が、できつつあります・・・

 

『私が初めから、メシヤとなる道が、

完成したアダムが、エバを完成させることだと分かったならば、

そして、それがこんなにも難しすぎることだと分かっていたなら、

メシヤの責任を辞退していただろう。』

 

とお話になられました。

そんなことも分からずに、

メシヤの責任を引き受けたと言われました。

アボニムは、白紙状態にあるオモニを

娘のように育てなければなりませんでした。

 

史 吉子(サ キルジャ)(劉 孝元:ユ ヒョオン 元協会長夫人)

『原理に関する「み言」の証』  333頁 (成和出版社 2012.08.08)

 

 

「メシヤと我々」より 

神を失った人間

 この世に住んでいる一般の人は、メシヤが必要であることを知る者はほとんどいません。
・・・


サタンを追い出すメシヤ

・・・
だからこのメシヤというものは、

こういう天宙の中心の核として来られるお方は、

男で来るか、女で来るかということが問題だよ。

 男に聞けば「はーい、男で来る」と言う。

女に聞けば「はーい、女で来る」と言う。

なぜか? 男は実際何もやるものがない。

体としては何もやるものがない。

女は、体としてはお乳をやるんだね。

子供に飲ませ、食べさせるんだけれど、

男には何もやるものがない。何かあるの? 

そういう立場から見た場合に、男より女? 

男のメシヤが来たらいいか、女のメシヤが来たらいいか?

 では、女のメシヤが来たらいいの? 

日本の場合には天照大神は女か男か? 

日本人はよく知っているんじゃないの?(女です)。

日本人から言えば女で来たらいいじゃないの? 

これはおもしろい。

世界中でそんな国はたくさんはない。

そういう血統を受け継いだから、

日本人は女といえばもてはやされるよ。

男で来たらいいか? 

女で来たらいいか? 

 

・・・

 

 神は原理の神だ。神がメシヤをよこすには、原理に従ってよこすしかない。

まずもって、そのメシヤたる者は原理を中心として完成した者である。

原理を、専門的な原理を中心とした者でなければならない。

そうなるんですよ。

 

・・・

 

原因の出発点は男から、

神様から見ても、男を中心としなければ原因の主体性を立たすことができない。

男を中心としなければならない結果になっているから、

男のメシヤが来なければならない。

女は何か? 畑だ。

女が主体にはなりません。

男が主体である。

先にあった。人間の生まれるその種は女にあるんじゃない。

男が先にある。

だから原理的に見た場合には、男が主体者にならなければならない。

・・・

 

だからメシヤは神様も仕方なしに、男をよこさなければならないし、

人も男を望まなければならない。だから男が来るんだ。

男が来る。男のメシヤは何を求めてくるのか問題である。

何を求めて来る? 女を求めて来る。

 

・・・

 

 だからメシヤは、この地上に来られる時には堂々たる男として来られる。

天下いずこに来られてもそれに逆らう者なし。

神様もほれた男である。

歴史的聖人も、それは希望の的の男である。

これは万民、世界三十四億の現世の人間は、

その姿に一度会い、一度話し、

共に行動したいというような望みの的のお方である。

未来はそこから新しい尺度が始まる、出発の基点である。

それがあって、すべての価値が生まれてくる。

その基準あってすべてがその中心を取るようになる。

それが確立するにしたがって、勝利が決定されてくる。

・・・
日本語による「み言」『メシヤと我々』
     1972年4月23日 日本 東京教会 

 

 

先生は、それが分かるので、

オテギョン(真の父母論を作った人)この野郎は、

下手をすれば統一教会を滅ぼすと見るんだね。

だから、イーストガーデンから追い出したんだが、

追い出したのに出て行ったと思ったら、

また、戻って来たんだよ。

『文鮮明先生御言選集』第399巻213頁 

2002.12.23 イーストガーデンにて 

 

 

先生はいい加減に生きないんですね。

オモニがしようというままにしないんだね。

神様がしようという通りするんです。

オモニが神様がしようという通り、すべてのことが出来ていないので、オモニを前に立てることができないんだね。

嫌だとしてもオモニも父母様(アボジのこと)を前に立てておいて、こうしよう、ああしようとしないとダメです、

自分たちだけで、こうしよう、ああしようとしたら原則が狂ってしまうんだね。

「み言」選集 506巻 2005.09.05 アラスカ

 

統一教会に中心があるの? 

家庭的中心がある? 

 

先生も、いまだにオモニを中心として越える峠を越える為に、死ぬほど我慢してるんだ。

 

目玉が飛び出るほどの難しさがあっても舌を噛んで(歯を食いしばって)何も言わないんだね。

 

一人の女性を育てて、理想的な妻にするのが、世界統一より、もっと難しいのだよ。

 

『宇宙主管を願う前に自己主管を完成せよ』ということよりも、もっと難しいんだね。

 

それをオモニが知らないんだね。

今、聞いているだろうね。

今から分からないとね。

 

何日か前に言ったよ、

「先生は原理的にしますが、私はそうはしません。」

そんなこというんだよ。

 

これ以上恐ろしい言葉がどこにあるの?

 

文鮮明(ムン ソンミョン)先生「み言」選集 488巻

『摂理的蕩減時代と祖国光復』

2005.02.21(月)韓国 ソウル 龍山(ヨンサン)

     漢南(ハンナム)国際研修院

 

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

 

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村

 

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 家庭連合へ
にほんブログ村

 

 


PVアクセスランキング にほんブログ村