いよいよ、修理に出していた愛車デリカD5くんが、

修理を終えて、夏タイヤに履き替えて帰って来ました。

 

これで、デリカD5とデリカミニのデリカペアが駐車場に並ぶようになりました。

 

 

網戸ごしの写真で申し訳ありません。

 

新車のデリカミニくんと、

かたや、デリカD5はよくみたら、20万キロを超えていました・・・。

 

エンジンオイルもすぐなくなります・・・涙。

 

・・・何故か、三菱で揃ってしまいました・・・。

 

世の中でも、

 

同性愛の問題にしてもそうですし・・・、

 

男女平等と叫ばれて・・・、

 

また、男尊女卑という言葉も耳にします・・・。

 

本来、神様は男性と女性をどのようにお創りになり、

 

どのような秩序と関係性を持つようにされたのだろうか?

 

このことを深く考えてみる必要性を感じる、今日この頃でございます。

 

少なくとも、男性と女性を何かのファッション、衣装のように考えて、

どちらでも、たいして違いはない、

気分によって着替えれば良い、

男性が嫌なら女性になればよいし・・・、

女性が嫌なら男性になればよい・・・

 

というようなものでもないと思うのです。

 

上のように思っている方々も少なからずおられて、政治・政策?

もそのような方向に進んでいるような気もして、

私は、それは気がかりなわけですね。

 

人権とか、平等とか、自由とか、

 

そういう一見、耳に聞こえの良い言葉で訴えてきているようです・・・。

 

同性愛者であろうと、幸せな生活をおくる権利があるのではないですか!

 

と言われると・・・、嫌、同性愛者には幸せになる権利はない!!

 

などと言えないのが普通ですので・・・。

 

世界では、どんどん同性愛容認が広がっておるようにみえます・・・。

 

さて、

 

統一原理では、男性と女性について、

主体と対象の相対的関係にあると主張します。

 

そして、主体と対象の関係は、心と体の関係と同様で、

 

内外、

縦的と横的、

原因と結果、

との相対的関係を持っていると主張します。

 

さて、これは、天の創造の真実なのでしょうか?

 

それとも、男尊女卑の思想から出てきた考えなのでしょうか?

 

『平等』について考えてみると、

差異を認めず、何でも同じに、みなそうというのが、真の『平等』ではなくて、

 

差異を認めたうえで、それぞれが満足できるようになることが、真の『平等』と思うのです。

 

男性と女性についてみれば、男性と女性を同じとみるのではなくて、

それぞれが、心からの満足と幸福を感じるようになることが一番大切なことで

あると思います。

 

それぞれの役割があり、天から与えられた使命もあり、

 

そういったものを喜んで悟り、それぞれの位置で、最高の満足と幸福を

感じればそれで良いのだと思います。

 

例えば、長男なら長男としての立場と責任があり、マンネ(末っ子)と、

その役割や責任は大きく違います。

 

その立場の違いなどを全部なくして、区別しなくすることが理想ではなくて、

 

それぞれの立場で、最高の満足、最高の喜びを感じながら生活できれば、

誰がそれに不平を言うでしょうか?

 

長男が長男であることに心から喜び、マンネはマンネであることを

心から喜べるようになれば・・・チャン、チャン、一件落着となるのです・・・。

 

神様は、明らかに、男性と女性を異なってお創りになりました・・・。

体はもちろんですが・・・、

 

大事なことは、男性も女性も、その与えれた立場で、最高の満足、最高の幸福を

満喫する人生を送れば、誰が、女性であることに不満を持ち、男性であることに

不満をもつのでしょうか?

 

だから、『平等』は、『満足の平等』であるべきなのです。

こんな言葉、あるのか分かりませんが・・・。

 

深く理性的に思考する性質は、神様は男性に与えられたと言うと、

 

男尊女卑に聞こえるでしょうか?

 

私は、囲碁と将棋が好きなのですが・・・、

 

もちろん、プロの女性棋士には、一般人の男性たちはボロボロに

負けます・・・。

 

しかし、超一流、世界トップの棋士には、女性が一人もいないのですね・・・。

 

現在だけではなく、歴史を通してもそうです・・・。

 

何事も極めると、本質が見えてくるものです。

 

運動選手も肉体競技の世界記録は男性ばかりです・・・。

 

明らかに男性と女性の違いがなにかあるようです・・・。

 

別に囲碁や将棋が強くなくても、

世界記録を作れなくても

それでいいんです・・・

別のところで女性たちは神様から与えられたギフトを満喫すればいいだけです。

 

男性のメシヤを送り、女性のメシヤは送られない、

ということも同じようなものなのです。

 

もともと、神様が付与した男性と女性の内容から・・・

そのように摂理される必然性が出てくるのです・・・。

 

それを、

それは男尊女卑だ、

男性のメシヤでなくて・・・

女性のメシヤを送っても良いのでは・・・

 

と勘違いしてはいけないと思うわけです。

 

でこ、と、ぼこ、があるから一つになれるのではないでしょうか?

 

でこ、と、でこ

ぼこ、と、ぼこ

 

ではちょっと嫌ですよね・・・

 

神様が男性と女性を違うようにお創りになったのも、

一つとなる刺激を味わえるようにするためでもあったと思うのです。

 

男性ができて女性が苦手な分野もあるし・・・、

女性ができて男性が苦手な分野もあるし・・・、

 

女性には、妊娠、出産という絶対に男性には出来ないものを持っています。

 

男性には、はっきりと目には見えないかもしれませんが、

 

主体としての特別な内容が天から与えられているのではないでしょうか?

 

この辺が、男性メシヤだけを神様が送られる理由になっているように思います。

 

男性が、そのような主体としての内容を与えられているのも、

 

それを用いて、女性を幸福にするためなのに、

 

それを悪用?して、女性を蹂躙したり、女性を傷つけてきた

 

長い歴史があったことが問題だと思います。

 

・・・こんな男性が、主体であることは絶対認めない!!!

 

と言われるだけの悪行を歴史的にしてきたわけですので・・・。

 

でも!

 

だから、主体、対象の関係を無くそう! 無視しよう!

ひっくり返そう!!!

 

とするのではなくて・・・、

 

本来、対象を守り、その幸福の為に、生きるという

主体の本分を全うするようにしていくべきなのです。

 

この辺の、主体と対象の在り方、

 

本来の男性と女性の在り方、

 

などなどをゆっくりと・・・、じっくりと・・・、

 

神様と会話しながら・・・

 

考えることのできる我々・・・となっていけたら・・・

 

ちなみに、神様に話しかけて、返事がなくても、

 

ちゃんと聞いてくれておりますから、めげないでくださいね・・・。

 

どんどん話しかけたら・・・

 

どんどん話しかけてくださいね・・・。

 

神様も寂しがりやさんだと思うので・・・

 

あなたが、いないと・・・寂しいそうですよ・・・。

 

あなたなしでは、生きられない!

と言われる息子、娘を目指そう!!!

 

・・・話がずれてるな・・・

 

また、です。