従来のクリスチャンは、イエス様の十字架による救いを

強調されると思います。

強調というよりも、それが全てと言っても過言ではないかもしれません。

 

私達の罪ゆえに十字架にかかってくださった。

十字架の贖罪によって罪がすべて許された。

 

と信仰しているようです。

 

では、私が再臨のイエス様と信じているアボジ(文鮮明ムン ソンミョン 真のお父様:以下 アボジ)が説かれた統一原理では、このことをどのように説明しているのでしょうか?

 

分かりやすく、イエス様の十字架の救いを100の救いと考えてみると・・・、

 

統一原理では、イエス様の十字架による100の救いをそのまま同意します。

そのまま認めているのです。

 

ただ、従来のキリスト教の救いと統一原理がどこが違うのかと言えば、

 

統一原理では、十字架による救いの100を認めたうえで、

神様の本来の願い、神様がイエス様を地上に誕生させられた第一の願いは、

 

生きて地上天国を実現されることだった、と教えてくれているところなのです。

 

すなわち、神様は、本来、もっと素晴らしい1000の救いを用意し、

それを実現しようと働き、願っておられたということです。

 

その1000の救いが実現するためには、

ユダヤ民族がイエス様をメシヤと受け入れることが必要でしたが、

ユダヤ民族がイエス様をメシヤと信じることが出来なかったので、

神様が願っていた1000の救いは、再臨期まで延長するしかなかったということです。

 

神様のそもそもの目的は、全人類の救いなのです。

 

ユダヤ民族を選民として立てたのも、全人類を救うためでした。

 

イエス様誕生の約400年前に、釈迦をおくり仏教を準備し、

孔子を送り儒教を準備し、ソクラテスを送り哲学を準備したのも、

 

イエス様をユダヤ民族が受け入れたならば、イエス様の教えが、

シルクロードを通して、世界に伝播されていくときの、

精神的土壌、霊的土壌、宗教的土壌を準備されたからでした。

 

そのようになれば、イスラム教というものも誕生しませんでしたし、

キリスト教の殉教の歴史もなかったですし、

争いの堪えない人類歴史がその時に終焉していたのです。

 

戦争もない地上天国が出発していたので、ユダヤ人の虐殺といった

ことも起こり得なかったのです。

 

人類の幸福を何よりも願う神様ですので、

本来、出来るだけ早く地上天国を実現し、不幸や戦争のない世界を実現させたい

わけです。

 

聖書には、神様は2000年間、ユダヤ民族を選民として、導き、教育してきたことが、

書かれています・・・。

 

何故、神様は、ユダヤ民族をそのように導き、教育してきたのでしょうか?

 

それは、将来、送られるメシヤを信じて欲しいからでしょうか?

 

不信して欲しいからでしょうか?

 

従来のクリスチャンは、十字架しか見えていませんから、

不信して欲しいと考えるしかないのです。

・・・不信して欲しい神様と言ってはいないと思いますが、

実際は、そういう神様を描いているのです。

 

だって、イエス様をメシヤとユダヤ民族が信じ、受け入れたならば、

決して十字架につけない筈ですから。

 

そうなのです。

 

神様の願いがメシヤを信じて欲しいことであるとするならば、

 

もし、神様の願い通りに、ユダヤ民族がイエス様がメシヤであることに

気が付いたならば、誰が、メシヤを十字架につけようと思うでしょうか!!!

 

その後の、ユダヤ民族の歩んだ歩み・・・、

 

今の世界情勢を見ても、

 

ユダヤ民族がイエス様を不信した結果、ユダヤ民族のみならず、

全人類がどれほど悲惨な歴史を歩んできて、

今に至っても混乱の中にいるのか明らかなわけです。

 

イスラム教は、イエス様の死後、何百年か後に生じた宗教です。

 

イエス様を信じ、地上天国が実現されていたならば、

生まれる必要もなかった宗教だったのです・・・。

 

確かに、イエス様の十字架の救いの恩恵の100は、

非常に大きな救いの恩恵であります。

 

しかし、神様はもっと素晴らしい、

究極の救い、地上天国の実現を願っておられたということです。

 

今も同じで、地上天国の実現を願っておられます。

 

・・・何故、統一教会が異端と言われたかと言えば、

 

従来のキリスト教会が、気が付いていなかった、

 

十字架以上の救い、地上天国の実現が神様の本来の願いであった、

という事実を明らかにしたからです。

 

十字架が絶対! と信じているので、新しい真理を

新しい革袋にいれるのが簡単ではないようです・・・。

 

不信してもらうために、神様は、ユダヤ民族を

2000年間も愛し、育て、導いてきたのではなかったのです。

 

当然のことなのですが・・・、従来の教えの思考の枠から

抜け出すことが簡単ではないようですね・・・。

 

このことは、聖書の文字をどのように解釈するのか?

 

というような理屈の問題だけではなくて・・・

 

生きて心を持っておられたイエス様の

 

その当時のお気持ち、その当時の心を、

どれほど正確に理解し、感じるのか!!!

 

という非常に心情的な意味を持つのです!!

 

イエス様の本当の事情、本当の心情を実感するということが、

イエス様を愛する者の何よりも願うことであり、何よりも大切なことだからです。

 

イエス様は、ユダヤ民族に受け入れられて、地上天国を創ることが

神様の一番の願いであることを知っておられました。

 

ですから奇跡を行い、病気を治したのも、信じてもらうためでした。

父のおくられた子を信じることが一番の父の願いである!とも言われました。

 

そして、信じない民に対して、ああエルサレム、エルサレムと

嘆かれたのも・・・

 

ゲッセマネで三回も、十字架をさけたいと祈ったのも、

そのためだったのです。

 

イエス様が、ユダヤ民族に信じてもらおうと身もだえしながら、

歩んでこられて、それがかなわないとなったとき、

それでも十字架の救いの摂理を通して再臨に期待しようと

悲痛な歩みをなさった、その心情を

 

もし、十字架が最初の予定であり、最初からユダヤ民族が不信するように

なっていたと思うならば、そのイエス様の真の事情、真の心情を

どうして理解し、感じることが出来るのでしょうか?

 

私が、確信していることは、誰よりもイエス様の真の事情を理解し、

誰よりもイエス様の真の心情を感じ、

誰よりもイエス様を愛されているのが、

アボジであるということです。

 

ユダヤ民族を選民として立て、二千年間も試練と迫害をも与えながら

神様が愛し、導いてきたのは、

 

イエス様を不信して殺害する栄光を立てるためだったと思いますか?

 

それとも、イエス様を信じて、共に地上天国を実現する中心的役割を

果たして欲しいと願われていたからだと思いますか?

 

真実は一つです!!!

 

どちらでしょうか!!!

 

・・・まあ、その後、ユダヤ民族のたどってきた歴史をみれば、

答えは明らかなのですが・・・

 

すべてのクリスチャンたちに、早く、目覚めて欲しいですね・・・。

 

再臨のイエス様が来られて・・・、

再び、天へ、霊界に、行ってしまいました・・・・・・。

 

再臨のイエス様がお生まれになり、104年が過ぎたんですね・・・。

 

1920年にお生まれになったのです。

 

我々が真理を学ぶ時、知識としてだけではなくて、

そこから神様の心情、イエス様の心情を感じることが

何よりも大切だと思います・・・。

 

地上天国実現という神様の願いがあったのか?

それともなかったのか?

 

その認識の違いで、同じ聖書を読んでも、

伝わる心情が感じれないことにもなるのですね・・・。

 

2000年間、神様がどのような心情でイスラエル民族を愛して

来られたのか? それも、正しい真理を知らないと感じることが

できないとなるのです・・・。

 

神様の心情、イエス様の心情から、真理を読み解く・・・

という姿勢をお勧めいたします・・・。

 

神様の心情は一つ・・・

 

イエス様の心情も一つ・・・

 

ですので、そこから一つになる道がみえるかもしれませんね・・・・