「相事象学会誌」が紹介されていた「知足自愛」さんのブログには、
ほかにも面白そうなものが分類表題にありそうですね。
たとえば、
■「禁じられた福音書」と「聖書の真義」
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※以下、転載です。
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「禁じられた福音書~ナグ・ハマディ文書の解明」は、初期キリスト教史の専門家であるエレーヌ・ペイゲルス氏の著作である。
1945年にエジプトでナグ・ハマディ文書の一部として発見された、「トマスによる福音書」と従来から新約聖書に採用されている「ヨハネによる福音書」との対比を中心にして、初期キリスト教における様々な学派を紹介し、キリスト教徒であったローマ帝国の皇帝コンスタンティヌスによって「カトリック教会」が認定されるまでの経緯をも紹介している。
この書籍の中では、ヨハネが「トマスによる福音書」を徹頭徹尾排斥した理由が語られている。
「トマスによる福音書」においては、神の光はイエスの内にのみあるのでなく、少なくとも潜在的には、万人の内にある、としている。万人は神の似姿に創られたのであり、人間一人一人に与えられた聖性を通じて神を知ることを求めよとする。
一方、「ヨハネによる福音書」では唯一の神の子であるイエスを信じることを求めている。
著者は、これはキリスト教徒が世間の偏見や迫害から免れ、宗教としての纏まりを見せ、後に国教として是認されて公同の教会設立に至るためには不可欠であったとの考えを示している。
正統とされる福音書の4書のうち、「マタイ」「マルコ」「ルカ」の3書は、大体似たような観点を共有しているので、学者たちはこれらを「共観福音書」と呼んでいる。
この3書がイエスを神の使者である人間と見做しているのに対して、「ヨハネ」と「トマス」ではイエスを人間の形を採った神自身の光としている。
ただし、 「ヨハネ」と「トマス」の書記はイエスの秘密の教えを全く異なる方向で捉えている。
ヨハネは、イエスを「全ての人を照らす光」と呼び、ただひとりイエスだけが神の光を世にもたらすのであって、さもなくば世は闇に沈むとし、人が神を体験するのは、光の受肉であるイエスを通じてしかない、としている。
トマスに拠れば、イエスに受肉した神の光は全人類が共有している。何故なら人は皆「神の似姿」に創られたからである。そして、「神の似姿」は万人の中に隠されているが、ほとんどの人はその存在に気づかないものだとしている。
キリスト教神秘主義者は、自分を神と同一視しないように常に気を配っていたが、 「トマスによる福音書」では、自分自身と神との親和性を認識することが神の王国の鍵だとしている。
正統派のユダヤ教徒やキリスト教徒が神と私たちとの間の親和性を完全に否定してきたわけではないが、その指導層は、人々が自ら神を探求しようとする行為に反対、もしくは少なくとも制限しようとする傾向があったとする。
キリスト教徒の間の格差を「宗教体験の多様性」に求めた者もあり、回心体験には質的差異のある2通りのタイプがあるとする。それは、救済を罪と死からの解放とする過程と、「神と自分自身」を知らず、破壊的な行動に陥っている人間が、最後に神との関係を認識し、必要とする過程とである。
「聖書の真義」に拠れば、イエスは神の光輝(神我一体境)を分け持つ偉大なる魂でご自分で自らこの地球に生まれるべく決意をされ、神の大宇宙計画の大目的を達成するに必要な働きをするために来世されたとしている。
「聖書の真義」では、イエスの教えの神秘を探り当てるためには、特にカバラ(ヘブライ秘教)の知識がないと、聖書の象徴的な意味が完全には理解できないとする。特に「ヨハネの黙示録」の中の比喩的東洋的象徴主義を把握するには、「カバラの真義」で触れられている、「生命の樹」アダムカドモンの十光球やヘブライ・アルファベットの22字の理解は不可欠である。
また、イエスが直弟子たちに教えていた霊的秘伝による密教的教義は、口伝によってのみ伝えられているとし、パウロですらその秘伝を受けていなかったとしている。
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※転載はここまで。
このことは、聖書がキリスト協会によって、意図的に編纂され、解釈されて、
神さま(内なる父なる母なる主たる神さま)を人々から遠い存在にしてしまった、
という評価を裏付けたものと言えるでしょうね。
※なお、わたしは、キリスト教については、別段、興味を持っていませんし、
イスラム教についても、別段、興味を持っていません。
わたしが興味があるのは、「真理」と「神我キリスト(宇宙創造主=非人格神)」さんと「イエスさん」や如来さん方です。
■イエスさんの弟子たちの精神レベルはどれくらいだったのでしょうか?
たとえば、
●お釈迦様の弟子たちには、阿羅漢(如来の指導により「仏陀」となった者)が約500人いました。
(※仏陀=真我到達者)
◆お釈迦様は、長寿で、弟子たちを長期間、熱心に指導し続けられました。
◆弟子たちの指導のために、多くの立派な修行場(サンガ)と、極めて合理的な修行体系とを確立なさいました。
●イエスさんの弟子たちには、神我キリスト到達者は1人もいませんでした。
◆イエスさんは若くして処刑され、復活して身体を再生なさった後も、地上で弟子たちを指導なさったのは短期間でした。
◆弟子たちの修行場や、体系的な修行方法の確立はなさいませんでした。
◆イエスさんは、弟子たちに向かって、よくこぼしていらっしゃいました。
(例)マタイ福音書8「嵐を静める」
イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」
(例)マタイ福音書14「湖の上を歩く」
「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。
(例)マタイ…昔の人の言い伝え 15
「あなたがたも、まだ悟らないのか。 すべて口に入るものは、腹を通って~」
(例)マタイ…ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種 16
イエスはそれに気づいて言われた。「信仰の薄い者たちよ、なぜ、パンを持っていないことで論じ合っているのか。 まだ、わからないのか。覚えていないのか。パンを5つ~どうしてわからないのか。~。」
※決して、イエスさんの弟子たちの悪口が言いたいわけではありません。
わたしに質問されても、答えれないかもしれませんし、間違った答えをするかもしれません。また、緊張して答えが頭に浮かんでこない場合もあるかもしれないからです。
短期間の修行しかしていないお弟子さんでは、仕方がない状態なのです。
■さて、わたしは、引用内容を読んで、次のように感じるのです。
①(ヨハネは)、神我キリストを「全ての人を照らす光」と呼び、ただ神我キリストだけが神の光を世にもたらすのであって、さもなくば世は闇に沈むとし、人が神を体験するのは、光の受肉である神我キリストを通じてしかない。
②(トマスは)、イエスに受肉した神の光(神我キリスト)は全人類が共有している。
何故なら人は皆「神の似姿」に創られたからである。
そして、「神の似姿」は万人の中に隠されているが、ほとんどの人はその存在に気づかないものだ。
イエスさんと神我キリストさんが伝えたかった真意は、①+②を合わせた内容だったのだと。
なぜなら、
●「イエスさんが語られた言葉」には、次の2種類の言葉があるからです。
①イエスさんの口を借りて「神我キリスト」さんが語っていらっしゃる言葉。
②イエスさんがイエスさん個人として語っていらっしゃる言葉。
この区別は、
「イエス・キリスト」という名称が、
「神我キリスト」と合一した「イエスさん」という意味であることが理解できた者にしか識別できないからです。
(例外として、直観力が優れた人だと、イエスさんの個人的発言としては随分と大言壮語だなぁ? と違和感が感じられる言い方が随所に出て来ますからね)
※「神我キリスト」とは、「父なる母なる主なる神さま」であり、最高神クリシュナないし宇宙創造主のことです。
「内なる神我キリスト」とは、各魂を個別に包み込み、守護しながら各魂と共に体験なさっている「内なる神我キリスト意識」さん。
※「神の似姿」とは、「真我」ないし「アートマン、またはプルシャ」のこと。
もしくは、「真我」とそれを包み込む「内なる神我キリスト」の両方を指しているのかも。
※「魂」とは、各「真我」を「心素」で包み、それを「我執」で包み、それを「理知」で包み、それを「意思」で包んで、個性を持たせたもの。
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上記の①+②のことが、後世で正確に伝えられていないために、
イエスさんと神我キリストさんとが、
◆1948年の春にヨハネスブルグで14回にわたって説法なさり、全講話をテープに録音させて「心身の神癒」という書籍にして広めさせ、
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◆「ヒマラヤ聖者の生活探求」第2・3巻を通して、ヒマラヤ聖者さんたちやお釈迦様と協力して、米国の学者チームに対して1年間の特別セミナーを実施なさったのでしょうね。
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●「「聖書の真義」では、イエスの教えの神秘を探り当てるためには、特にカバラ(ヘブライ秘教)の知識がないと、聖書の象徴的な意味が完全には理解できないとする。」について
これについては、イエス・キリストさんの教えを理解するのに、
「カバラの知識」は必要ないと感じます。
イエスさんも、神我キリストさんも、「カバラの知識」が必要であるなどとは、「心身の神愈」においても「ヒマラヤ聖者の生活探求」においても、述べておられません。
「ヒマラヤ聖者の生活探求」の第2巻~3巻の中で、キリストになる方法・キリストを生きる方法が、イエスさんの言葉で具体的に書かれていますので、これはお勧めです。
いつもありがとうございます。
みんなが神の子:神の子クリシュナ