これは真理を想い出す祈りの核心でしょうね。
20ページより
∞⇔∞⇔∞⇔∞⇔∞⇔∞⇔∞⇔∞⇔∞⇔∞⇔∞
【実相に超入する祈り】
わが真実の相(すがた)は『霊』であるのである。
これを実相というのである。
わが実相は『神の子』であり、神は『霊』であるがゆえにわれもまた霊的存在である。
私たちが 悟りをひらき得たその程度にしたがって、
私たちは 自己が『物質的肉体』ではなくて、霊的実在であるということが一層はっきり判ってくるのである。
すべての存在を物質として観てきた過去の考えは、全く『迷いの心』の産物だったということが判ってくるのである。
すなわち釈尊が、山川草木国土悉皆成仏とお悟りになった其の如く、
山も川も草も木も国土も悉(ことごと)く物質ではなくて、仏の〔いのち〕の現成(げんじょう)であるということがわかってくるのである。
これを端的に表現して「物質は無い」というのである。
「物質は無い」というのは、肉眼で見える「物質」というものは〔ある〕ように見えても、本来無いのだから、粗末に、かなぐり棄ててもよいというような意味ではないのである。
すべての物質と見えるものも、実は、物質ではなく、仏の〔いのち〕──神の〔いのち〕の現成なのであるから、それを拝む心で使わなければならないという意味なのである。
したがって一切の存在は完全円満であって、不完全なものは何一つないということである。
不完全なものは無いから、病気、老衰、貧乏、闘争、戦争──そんなものは実相においては決して存在しないのである。
これらの不完全な悪しき諸相が存在すると見えるのは、ただ5感(※視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)の誤れる認識がそのように見せているだけである。
われわれが、5感の感覚のあやまれる物質的認識に眼を瞑(と)じて、
実相を直接観ようと努力するとき、次第に、この世界の万物が物質ではなく、荘厳きわまりなき、神の創造したまえる完全無比なる存在であることが判ってくるのである。
この『実相の荘厳なる相』を観ずる行事が神想観なのである。
『実相の荘厳なる相』のみが真に実在するのである。
『実相の荘厳なる相』の中に一切の善きものが存在するのである。
そこに完全な健康があり、そこに無限の智慧があり、そこに無限の愛があり、そこに無限の供給があり、そこに無限の歓喜があり、そこに無限の調和があるのである。
〔そこ〕にこれらの善きものがあると見るとき、まだそれは本当に実相を自覚したのではないのである。
〔そこ〕を〔ここ〕にもち来すことが必要であるのである。
実相は今ここに、わたしの生命(いのち)のうちに、
今ここに神があり、神の国があり、完全なる健康があり、無限の智慧があり、無限の愛があり、無限の供給があり、無限の歓喜があり、無限の調和があるのである。
わたしそのものが神であり、わたしそのものが神の国であり、わたしそのものが無限の健康であり、わたしそのものが無限の智慧であり、わたしそのものが無限の愛であり、わたしそのものが無限供給であり、わたしそのものが無限の歓喜であり、わたしそのものが無限の調和である。
この真理を知って私は今 無限の感謝に満たされております。
ありがとうございます。
(「聖経 真理の吟唱」谷口雅春著より)
∞⇔∞⇔∞⇔∞⇔∞⇔∞⇔∞⇔∞⇔∞⇔∞⇔∞
ありがとうございます。
みんなが神の子:神の子クリシュナ☆(*^-^*)☆