吉田天満宮さんの境内ある「白山比咩神社」さん、本来は逆の紹介だと思いますが(汗)
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いきなり、「額」・・・・

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拝殿さん、吉田天満宮さんと同じ境内のため.・・・天神さんの「撫で牛さん」があったりして、

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手水舎

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手水

裏口入門のため、順序がおかしいです・・・

白山比咩神社は、白山権現者という名前で、魚町の安海熊野(やすみくまの)神社の脇宮として祀られ、保延二年(1136)には札木町に移動しました。天文二十三年(1554)に、この地を治めていた駿府(静岡市)には今川義元から永銭十貫二十四文(現在価値では30万円ほど)の奉納がありました。天正十八年(1590)吉田城主 池田照政が城を拡張するために、魚町に移動しようとしたのですが狭いため、現在の地に移りました。寛文五年(1665)に、神輿を新しく作ったことから花祭がはじまります。
神輿は吉田天神社及び、中柴町の諏訪神社に行く祭りで、参加者は紙で桜花を作って.竹に刺したものを背負い踊りながら練り歩きました。家老が警備に来る盛大な祭り.であったため、八町の鬼祭、関屋の祇園祭と共に吉田の三大祭と呼ばれました。
 明治3初年に名前を、現在である白山比咩神社と改め.、豊橋駅の開設や市電の開通で街と共に発展してきましたが、昭和二十年(1945)6月20日の戦災にて、社殿はじめ建物や花祭などの道具は焼失しました。昭和三十年(1955)には、豊橋では初めて、当時では珍しい鉄筋コンクリート建ての現在の社殿を、名古屋城や吉田城の再建を手掛けた、名古屋工業大学教授工学博士 城戸久の設計で再建し、当時としてはハイカラの社殿のため、神前結婚式の先駆けとして有名になりました。

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 吉田新銭座の歴史(寛永通宝と吉田駒曳銭)
江戸時代の初めの頃は中国が造った貨幣を使用していました。三代将軍、徳川家光は、国産の貨幣の使用を実現しようとしました。そのため、全国八か所に鋳造所を置くことを命じました。この全国八か所とは、常陸水戸藩(茨城県水戸市)・陸奥仙台藩(宮城県仙台市)・信濃松本藩(長野県松本市)・越後高田藩('新潟県上越市.)・長門萩藩(山口県美祢市)・備前岡山藩(岡山県岡山市)・豊後竹田藩(大分県竹田市)そして.、吉田藩(豊橋)です。
 寛永十三年(1636)、白山比咩神社境内に銭座(幕府の、許しを得ての銭の鋳造を請け負った所)が設けられ銅貨「寛永通宝」が造られました。寛永通宝は江戸時代の代表的な全国統一通貨です。
吉田の寛永通宝は貨幣が十分に流通する、寛永十七年(1640)まで造られました。
また、将軍家光は銭座を新銭座と命名し町の名前を新銭町と名付けました。(新銭町は昭和三十三年(1958)広小路三丁目の改名まで続く)
 寛永通宝を造るのをやめた後、吉田新銭座では、絵銭「吉田駒曳銭」が造られました。ひもに通した硬貨を数える区切り用として百の数取り銭とも呼ばれました。また、百徳を得られる縁起銭として喜ばれ子供の遊び道具としても使われました。
 あと、白山比咩神社の境内社として、金山彦神を祀る新銭座金山神社が祀られているが、造幣・鋳造の守護神としての御神縁から、お金の神さまとして金運・商売繁盛、事業発展などのご神徳があると信仰されています。    ・・・・神職より、頂いた記載より・・・

豊橋(吉田藩)で、寛永通宝鋳造していたことは、初めて知りました。

歴史って本当に深いですね・・・

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平成二十七年五月六日、奉拝