1/3f新年恒例の名古屋での大学時代のクラブの同窓会でした。
箱根駅伝も早稲田が東洋を振り切り総合優勝、シードの10位も国学院の選手がコースを間違ったときはハットしましたが無事シード獲得おめでとうございます。
で午後2時前時間があるので、自宅から足助街道を歩いてみました。
足助街道
現在の愛知県道39号岡崎足助線はこの路線を継承している部分が多いが、各所に時代とともに変遷していった形跡を見出すことができる。明治22年から実施されたいわゆる三河七県道の改修では、それまで道幅が狭く起伏が大きいために通行困難であった街道を、路線をずらししながら拡幅し、平坦な通りやすい道にした。そのため現在の県道39号は、必ずしも近世のルートとは一致しない。
足助街道は岡崎から足助まで里程が七里あったため七里街道とも呼ばれた。また巨視的に見れば、足助を経て信州に至る街道であることから信州道や善光寺道などとも呼ばれていた。
近世、この街道は塩の運搬路としても重要であった。川船で三河湾から矢作川を遡って菅生川まで運ばれた塩を、現在の竹千代通り付近の船着場で降ろし(あるいは矢作川をさらに北上して巴川でおろすこともあった)馬の背に積み替えて運んだ。
参考・明治20年までのルートを挙げれば岡崎市仁木町で旧名鉄挙母線三河岩脇駅方面へのカーブには曲がらず、直進して現在の北斗台や岡崎市立新香山中学校を突き抜け、桑原町で大給の里道を横切り、北上して現道の足助街道に合流し、豊田市九久平町から岩倉町で巴川を渡り、北上して現愛知県道487号松平志賀中金線に入り、さらに現愛知県道343号則定豊田線で豊田市立則定小学校まで行き、ここから市道に入り中切町まで進み、飯田街道(現国道153号)に合流するルートであった。
(Wikipedida参照です)
私見としては、水運はかなり発達しており巴川の松平・九久平まで行っていたいみたいです(岩津町史など参照)また、足助まで水運でのくだりのブログがありますが、九久平から船が上るのは難しいと思われます。
前置きは・・・
自宅からスタート、まずは岩津百々で足助街道へ合流

昔の道幅がちょっと続きます。

まったく昔を感じる家はありません。
ここで再び今街道に合流です。
しばらく歩きますが、これといったポイントはありません。

井田観音をすぎ、坂を下っていきます。ちょっと歴史を感じる民家が

ちょっと前大氾濫をした伊賀川へ

八幡さんが見えました。
また、旧道へ

すぐ、新道と合流です

能見・晴明神社です。

歩いてきた街道はこんな感じでした。
しばらく歩きますここで旧東海道と合流です

この後時間もありましたので、岡崎27曲がり西の部分を歩くことに(次回掲載したいと思います)
足助街道の続きはいつになることか(笑)