昨日の体操教室で体操を教えながら、つくづく現在の日本の学校教育とは180度反対の事を教えていると思った。

 一応、僕が作った教科書があるが、その通りに忠実に実行しようとして変な動きになっている方がいたので、教科書は守らないで、自分なりの動きを探っていってくださいと教えた。

 教科書を作った経緯は、次の通りである。最初、体操をしてみせて、このように動いてくださいとしたら、誰も動作を真似ることができなかったので、仕方なしに作った。教科書の悪い点は、静止画がいくつかあるだけで、その静止画と静止画の間の動きは描けない点である。体操の教科書と言いながら、動作が描かれていないのだから、まずいのである。

 静止画と静止画との間の動作の部分は各自が勝手に想像してこのような動きだろうと埋め合わせることになる。だから、「教科書は守らないで、自分なりの動きを探っていってください」なのである。

 教科書を守らせることは、教育ではないと感じている。しかし、教科書通りにやらないでくださいと言うと、それはそれで、多くの人は戸惑う。

 先日、リゾラッティとシニガリアの『ミラーニューロン(新装版)』(紀伊国屋書店、2023年)という本を読んでいて、人間の認識は量子化されているかもしれないという仮説が書いてあった。人間の言語が分節言語である理由はその辺にあるのではないかとされている。だから動作も分節的で良いのだろうと思うが、そうなると体操の基礎は言語の理解とイコールということになる。

 絵や図などの映像に従わずに、言語、それも内的言語に従うという体操は、リトミックなどの19世紀の教育手法の開発の中で現れてきた方法論である。日本では、トモエ学園が有名で、黒柳徹子さんが幼少の頃にこの方法論で教育を受けたことで有名である。

 だから、昨日の体操教室では、100年前の幼児教育のようなことをした。教科書に従い自分の内的言語に従わないという戦後の日本の教育は、つくづく100年前に日本で行われていた教育と180度正反対だなと思う。