数学というものは大変に便利な道具なのであるが、小中高と計算練習ばかりさせられるので、その便利さを理解するという事が無いのが残念である。

 数学は、定義というものから様々な定理を証明していくという形式を持っている。これは数学という学問体系を構成するために数学者が必要とする事であり、一般にはさほど重要性は無い。新たな定理を証明するという行為は、数学者は必要であろうが、一般の人間はそこまでを必要とすることは滅多に無い。

 これを誤解して、学校の教師などが、定理の証明を「証明問題」などと言って生徒に課すものだから、学校教育における数学は嫌われる。

 さて、小中校では数学の使い方は教えていないが、大学に入るとようやく数学の使い方を教わる。数学という体系は実に便利なものであり、定義が同一ならば異なる物であっても定理が成り立つというものである。非常に低レベルに平易に言えば、ミカンの個数の数え方も、リンゴの個数の数え方も同じであり、四則演算の法則はその対象がミカンであってもリンゴであっても同じであるということである。
 これが、大豆や米や水などを枡で量るとなると違ってくる。一升の大豆と一升の米を混ぜると二升にはならず、米が大豆の隙間に入るために、二升よりは少なくなってしまう。つまり、定義が成り立たない実例である。同様に、アルコール1リットルと水1リットルも、分子の大きさが異なるので、混合しても2リットルにはならない。
 1+1=2
が成り立つには、その定義をしっかり確認して適用する必要がある。

 経済学者の宇沢弘文は、経済学の対象とする量や数は、負の値にならないものもあるので、経済学で用いる数学は高校までの数学ではないとして、その著書の冒頭で非負となる変数を含む数学についての理論を構成してから、経済学の話に入るというスタイルをとっている。現実問題を扱おうとすると、そのようなことも時々起きる。

 この「定義を確認してから数学を用いる」という事を、小中高の数学では訓練することが無い。小中高では、普遍的に四則演算が通用するかのように教えており、そうしたテスト問題しか出題されないので、そのような誤解が世にはびこる原因となっている。数学を理解しない人が多いのは、生徒の責任ではない。

 さて、たとえば、「線形代数」という数学の分野がある。「線形」という意味は、グラフを書いたら定規の様な一直線の物差しで十分に足りるという意味であり、裏を返せば曲がったような曲線グラフは扱わないという意味である。数式で言えば、一次式(正比例)しか使わないということであり、二次関数は出てこないというのが、線形代数である。つまり、線形代数の概念は小学校で習得済みである。また、小学校の理科では、「バネばかり」の授業で、重りの重さとバネの伸びる長さは正比例するということを習うし、実験もする。バネばかりは、鋼鉄のスプリングで出来ている。この重さと長さの正比例の関係は、鋼鉄の性質である。ということで大学に入ると、この2つの知識を合わせて、鉄骨構造物の強度計算などを習うのである。
 対象の性質を定義として抽出し、その定義を満たす数学理論があれば、その対象はその数学理論に従っていると即座に結論できるのが、数学の便利な所であり、理学や工学に応用される所以である。

 足し算は、交換法則と結合法則が成り立ち単位元0を持っていると定義される計算方法である。掛け算も、交換法則と結合法則が成り立ち単位元1を持っていると定義される計算方法である。この足し算と掛け算という2つの演算を対応させる関係として、指数関数と対数関数がある。こうした関係があるので、掛け算が面倒であれば、掛け算を行わずに、足し算と対数関数表と指数関数表があれば掛け算の答えを求めることができる。その方法は、先ずそれら2つの数を対数関数で写像して、その結果を足し算し、指数関数で元に戻すと、掛け算の答えになっているというものである。この方法は、ジョン・ネイピアというスコットランドの人が発見し、発表した。ヨハネス・ケプラーが天体観測のデータ処理を行う際に、掛け算をしなくても掛け算の答えが出せるということで、多用された方法である。

 ある定義に従って演繹される理論体系と、別の定義に従って演繹される理論体系との間で、定義と定義の対応関係が明確化されることによって、メタレベル的な理論が構築され、ある理論体系と別の理論体系が互換性のある考え方として統一的に取り扱えるようになるというのも、数学の使い方である。

 こんなことを考えると、小中高の数学から、証明問題と計算問題をできるだけ減らして、数学の考え方を教えるようにして欲しいものであると思う。