モーリス・ラヴェル自身が演奏した『亡き王女のためのパヴァーヌ』であるが、これを聞くと、この曲はこのように演奏するのかという事が分かる。ラベル自身はピアニストではないために技巧的には稚拙だと言う人がいるそうであるが、それ以上に、現代の問題を指摘する演奏であると思う。


 他のピアニストのこの曲の演奏を聞くと、楽譜通りに演奏しようとしており、テンポもリズムも何もかもが紙の上に指示されておりその中で演奏者が工夫を凝らすという、官僚的なものとなっている。


 ラヴェルは、曲を創ったのであり、曲を書いたのではない点が、現代人からは忘れ去られている。紙に書かれたことが、そんなに大切なのか?、紙に書かれた規約を守ることが、そんなに大切なのか?ということである。人間は、紙を発明する前、文字を発明する前から、人間であり、その頃から音楽は存在していた。


 官僚は、紙に書かれたことを守ることが責務である。だから、古代エジプトにおいて官僚は、奴隷階級であった。米国で仕事をすると分かるが、命令は命令でありその通りに仕事をしなければならない。日本では、そこまで正確緻密な指示を出すことができる人間が上には立たないので、官僚的なことは、好い加減になっている。そういうイメージしか持っていない日本人は省略するとして、政治家が立てたプログラムを遺漏なく正確に執行するのが官僚の務めである。


 フランスにおいても同様であり、グランゼコールを卒業した人間が紙に文字を書き下す権利を持っている。あとは執行者である。


 さて、そこで、この曲である。この曲を聞くと、戦前においては音楽という技芸の世界は、そうした文書至上主義ではなく、感性で美しいと感じられる曲を創り出しそれを耳と手で伝えるという非言語的な世界であったことが良く分かる。


 茶碗は手に持って、湯を入れて、飲んでみて、その価値が分かる。目で見て、見事な模様だなどと言っている人は、骨董の価値が全く分かっていない。使ってみてなんぼの世界である。


 紙に描いた餅を、眼前に出現させようと、必死にその紙に書いた餅を見続けるような異常さが、現代人にあるので、要注意であると思う。