ロブションのパン屋に行って買って来たバゲットとポトフを食べていたら、料理の味が負けていることが気になった。

 ポトフの肉に、羊肉も混ぜて使う予定だったが、あいにく売っていなかったので、鶏肉だけにした上に、セロリも売り切れていたので、あっさり目の味になってしまっていた。

 レバーなどの内臓が入っているとか、濃い味のチーズなど、そういうのを受け止めるだけの力を、この店のバゲットは持っている。バターなら、発酵バター。

 とここまで書いてきて、この文体、どこかで見たことがあると思ったら、田中康夫の『なんとなく、クリスタル』であった。

 あの本は、東京のガイドブックのような文章である。店の名前を出すだけでなく、「記念日ならこの料理をチョイスするのだが、今日は普通の日だからこの料理にしておく」などと、商品まで立ち入った描写をしていた。当時はそれが新奇な感じがして、アンノン族などの流行もあり、それなりに収入が多くなった人々でお金の使い方が分からない人々に、浪費の仕方を示唆するような感じで、ミーとかハーとか呼ばれる人には聖典化しており、それに応じて店の方でもそれなりに女性が入店しやすいように工夫をし始めたのは、その後に現れるフェニミズムの意味不明な流行と重なるような気もする。とここまで書いてきて、この文体、どこかで見たことがあると思ったら、金井美恵子の『文章教室』であった。

 一応、どちらの本もテーマ的には重なる所がある。

 金井さんは高崎の人であるが、バカとかアンポンタンなどと言うので、東京の人のような気がしていた。『「競争相手は馬鹿ばかり」の世界へようこそ』である。

 フェミニズムなら、増田みず子さんの小説を取り上げるべきだろうとおもうのであるが、なぜか、無視されているし、最近では書店の本棚に見かけることも無くなった。

 これに李良枝さんの本も出てくると、1980年代後半の女流作家の感じがする。最近の東京は多国籍化しているので、李良枝さんの本を再読されても良いような気がするが、あまり話を聞かない。

 なんの話を書いているんだっけ?。

 パンとポトフの話であった。レンズ豆を入れたりベーコンを入れたり、また、ポトフの野菜を取り出して、マスタードやドレッシングやマヨネーズなどを付けて食べれば、それなりにパンが重くてもバランスが取れるだろうと思う。ともかく、ご飯と合わない方向へ行くのが正しいと思う。

 ご飯と合わせたかったら、味噌か醤油で味付けすれば良い。それに椎茸や油揚げなど入れれば、洋風の素材ばかりのポトフであっても一瞬で和風料理に変わる。

 ということで、西洋も東洋も、そう大きく違ってはいない気がする。人類が土器を発明して、「煮る」という調理方法を行い始めてずいぶん経つ。針灸もそうであるが、煮炊きも、ネアンデルタール人やデニソワ人などの発明であり、現生人類の発明ではない。そんな感じである。