ふたたびのサラエヴォ | うちのとらまる

ふたたびのサラエヴォ




ドゥブロヴニクからショートトリップでサラエヴォへ

                                                                    

                                                                  

                                                                     





レンタカーを借りたのはこのためでした


しょっぱなから車をこすってしまって少しだけ考えましたが・・・


せっかく来たんだし 行くっきゃないってことで


気持ちはルンルン♪ です





途中モスタルという有名な町があり 寄っていく事にしました











モスタルのシンボルとなっているスターリ・モスト橋


ネレトヴァ川にかかっています


16世紀に建設された歴史ある橋でしたが


1993年ボスニア紛争時に破壊されてしまい 2004年に新しく再建されました


川を挟んでムスリム人とクロアチア人が骨肉の戦いをした街です




ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争 (1992年~1995年) 














整備された幹線道路でドゥブロヴニクから約200km


サラエヴォまであと少し















市内に入りました


前方に見える黄色い建物!















サラエヴォ ホリデイ イン ホテルです




現在は営業していないこのホテルは


私にとって思い出深いホテルなのです












現在   セルビア人居住区から望む

1993年    セルビア人勢力側から見ています






ここで私は22年前に引き戻されます


1993年 私はこのホテルを目指してやってきたのです















当時のサラエヴォ勢力図です


三方を山に囲まれた盆地の街サラエヴォは孤立した街でした


有利な位置である山を支配したセルビア人勢力は


山から街を見下ろして砲撃や狙撃を頻繁に行っていました


ムスリム人たちは補給路も断たれますが


辛うじて国連防護軍(UNPROFOR)が空港を抑えてくれていたので


国際社会から支援された補給物資が空路で運ばれ命をつないでいたのです











セルビア人勢力側から見たサラエヴォ市街


案内してくれたセルビア兵




あちら側に行きたい でもあちら側に行ったら 


この人たちに撃たれるかも知れないのかと思うと複雑な気分







こちらもセルビア人勢力側から見た市街



丸見えですね


中央はホテル











前線を監視していた国連防護軍ロシア部隊




私がボスニアに行きサラエヴォに入ったのは 現在のセルビア共和国側から


これが大変面倒な行程になります



当時 国連防護軍の司令部があったのがクロアチア共和国の首都ザグレブ


まずはここで取材申請しプレスパスを貰います


陸路でサラエヴォに行くためにはまずセルビアに行かねばなりません


なぜならサラエヴォの周りはセルビア人勢力に占領されていたからです


クロアチアとセルビアは当時戦争状態であったために


隣同士にもかかわらず国境を越えることができませんでした


しょうがないので夜行バスでハンガリーのブダペスト経由でセルビアのベオグラードへ


セルビア軍の広報でプレスパスを貰ってから


ゴトゴトとバスに揺られ8時間かけてサラエボ近くの街 パレまで行く


とまあ こんな調子です










パトロールしていた? 国連防護軍フランス部隊 (セルビア人勢力側にて)




最大の難関は


セルビア人勢力側から イスラム教徒側であるサラエヴォ市内への移動


ようするに戦闘状態である前線を跨がなければいけないわけです


あらかじめリサーチしておいたのですが方法は3つありました



1 国連防護軍の装甲車に便乗する♪♪


2 大手メディアの装甲車に便乗する♪


3 自力で勝手に突破する!



3は ないわー


当時 命知らずな日本人ジャーナリストが


ソフトカー(乗用車)で突破したという話を聞いたけれど


でも どう考えても3は ないわー



やっぱり安全安心なのは1の国連防護軍


装備は最新だし 硬い車乗ってるし やっぱ国連だし♪♪















上手い具合にフランス部隊に遭遇


ほらカッコよく写真を撮ってあげますよ


ですから街まで乗せてってね










意識しています









お前 誰? って感じですかね




乗せてもらうのはここじゃなくて後ろでいいですからね


窓がないところ希望











私がバシャバシャ撮るものですからフランス兵たちもまんざらではありません


撮りまくって気分良くさせたのち 頃合を見計らって片言の英語で



わたし いきたい サラエヴォへ 


わたし いく いっしょに あなたたちと なう



完璧な片言英語だ





フランス兵の返事



あなた だめ


ノンノン



片言の英語とフレンチで返して来た






さあ困った・・・













フランス人ってケチなの?


しょうがないのであたりをウロウロ(車でですけど)しながら撮影















こんな場面にも遭遇










セルビア人兵士たち













負け = 死か 住んでいる所を追われる












だから 年寄りであろうが子どもであろうが戦うしかない











「ごっこ」のすぐ隣には「実戦」が待っているのです











セルビア人の埋葬


戦争になれば もちろんどちらにも犠牲者が出ます













サラエボまで数キロのセルビア人の拠点 パレ


民宿に泊まりながらチャンスを伺うこと3、4日


しかしフランス部隊に遭遇したあとは他の国連防護軍も見つからず


自前の装甲車を持っているといわれるCNNもBBCも現れず


ふてくされてどうしようかと考えていたとき・・・















民宿に現れた救世主!


エゲレスの雑誌 「THE エコノミスト」 の記者さんたちでした


これからどうするのかと聞けば なんと!サラエヴォに行くといいます



何によって行くのですか?  と聞けば



このバンで行く  と



えっと普通の車ですよね?



大丈夫大丈夫 防弾仕様だから 



なーんだ そうなんだー 大丈夫なんだー



・・・って!


運転席と助手席それぞれの窓部分に


防弾プレートが立てかけてあるだけやないかーい!














しかも撃たれとるやないかーい!


プレスなのに・・・







しかしこのチャンスを逃すと


シャレじゃなく本当に自分で勝手に突破しなくてはならなくなるので


何があっても自己責任ってことで


ホリデイインホテルまで送ってもらうことに同意


結局 2と3の中間ということで手を打つしかなかったのでした


そして抜かりなく 帰りもちゃっかりと予約したりなんかして




じゃあ二日後の夕方4時にホテルでね



わかった



きっと来てね



わかったわかった



本当にお願いね



わかったわかったわかった!




これだけを聞いたら怪しい会話に思われるだろう


でも本人は必死だ


孤立したサラエヴォに置いていかれたら なんて考えるだけでもぞっとする











民宿をやっていたセルビア人夫妻


ご主人のネナードさんと奥さんのノブカさん




サラエヴォに行くという私を本当に心配してくれました


出発の朝 


ノブカさんがサラエヴォでは食事もできないだろうと


3食分のサンドイッチを作って渡してくれたのが忘れられません











前線横断ルート



直線で行けばあっという間の距離なんですが

とにかく国連が二つの勢力の間を出入りしている箇所ということで

空港寄りのルートになったわけです













コバンザメ作戦だ





ラッキーにも ちょうど国連装甲車が走っていたのでくっついて走ることにした


この時のドキドキ感ったら そうそう味わえるものじゃあない


私は助手席で自前の防弾チョッキとヘルメットを着用して身をすくめていました


幸い撃たれることなくサラエボ市内に入ることができたので一安心





--お知らせ--



防弾チョッキとヘルメット売ります


サイズはXXLだったかな 大きいです


確か20万円くらいでニューヨークで購入


奇特な人 5万くらいでどうかしら


チョッキ自体は拳銃弾9ミリ45口径(マグナムはダメだったかも)まで大丈夫


胸と背中に入れるプレートは 7.62NATOライフル弾も大丈夫だといわれています


ただ使用期限があったような・・・


まあ20年前のものですから あまり信用しないほうが良いでしょうね


ちなみに重さはトータルで10キロほどあって とてもずっとつけている気は起こりません


国連の輸送機に乗せてもらう条件が防弾チョッキ所持必須だったので 


しょうがなく購入したのです(結局乗らなかったけど)


ヘルメットは日本で中古を購入 たしかイスラエル軍ものでした


色は軍用色だと戦闘員に間違えられるとヤバイので


いろいろ考えた結果「紺色」に塗りましたよ










これさえあれば銃撃戦に巻き込まれても安心


ヤマグチ組も分裂して抗争があるやも知れませんし


おひとついかがでしょうか



もし何か間違って売れた場合は福島資金に当てさせていただきますね


決してあんなことやこんなことに使ったりしませんからっ!















ついたどー




当時ホリデイインはジャーナリストが宿泊するホテルと知られていて


私もそれに倣って宿泊しました


建物の南面は山側を向いているので殆どの部屋が破壊されています


宿泊できるのは写真に写っている面のの反対側だけとなっていました




ホテルにチェックインして フロントでもらうのはキーと・・・


水が入ったバケツ一個(笑)


トイレの水用です


部屋には椅子テーブルとベッドがあるだけ


なんとなーく汚れたシーツが


洗濯するどころじゃない場所だということを物語っています


もちろん水が出ないのでシャワーなんてのも浴びられません




このホテルのロビーにはガイドが待機しているのです


さっそく 人の良さそうな男性にお願いしました


記憶では確か日給200USドルだったような気がします


相場もよく分からないので云われるがままです


ここで高いと断っても ひとりじゃ何もできませんしね






さあ外に出ます

















モスクではお祈りの真っ最中


神は助けてくれるのでしょうか












皆の真剣なまなざし


自分に何ができるのか


結局どこの場所でも私は無力だった














市場に迫撃砲弾が撃ち込まれ多数の犠牲者を出した















日常的に犠牲者が出て


毎日どこかで埋葬が行われていた


こちらはムスリム人の人々














おじいちゃんが撃たれた




確かそう云ったと思った


大事にしてもらっていたんだね













お宅訪問


電気は通ってはいたが灯火管制で なるべく灯りはつけない


TVにはボスニアのモスリム人を代表するイゼトベゴビッチが












サラエヴォ市内を警備する国連防護軍スウェーデン部隊
























セルビア側の前線を監視するのがロシア部隊なら


ムスリム側の前線はフランス部隊








サラエヴォに滞在したのはたった3日間


時間は あっという間に過ぎて また同じルートで戻ります


時間通りに エコノミストの記者たちはホテルに来てくれました


感謝 感激 雨あられ


名前・・・ まずい 思い出せない 恩人なのに
















当時は秘密とされていて この時点では私も存在を知らなかったのですが


ムスリム人の人たちは補給のためにトンネルを掘っていました


ちょうど滑走路の下を横断するルートです














現在の写真





普通の住宅の一部から掘られたトンネル


当時は800mありましたが現在は20mのみ公開されています










トンネルに入ってみました


補給物資 けが人の運搬


この1本のトンネルでサラエヴォ市民の命がつながっていたのだと思うと


なんとも云えない気持ちになってしまいます





それにしても最初にトンネル管理者にだまされて脱力していたので


ちょっと感動も半減



到着して車をパーキングにとめて


トンネルのある家に向かって歩いていたら


ひとりのおじさんがパーキング代を徴収しに来た


料金は別に高くもなく パーキング代を支払ってから 


トンネルに入るチケットはどこで買うのかと尋ねた



あー 君 それは問題だ



え? 



チケットはここでは売っていないんだよ



え? え?



ここから数キロ離れた街の観光案内所でしか売っていないのだよ



まじで?



そう まじで 残念だけどそこまで行ってもらうしかないね



そんな殺生なあーー・・・



うっそぴょーん





ウソなの!?



そうウソ



このー! バカバカ (胸をたたいて顔をうずめる)





てなやり取りがあって せっかくの雰囲気がパー


この親父何者だと思ったら 


トンネルの家の持ち主で 開通するまで掘り続けた人の一人だった


戦争が終わって20年


こういう冗談も出てくるほど戦争は過去のものになりつつあるのだと


それはそれで喜ばしいことだったのかもしれません


















グーグルマップによる ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦


国土の49パーセント(赤い部分) は 主にセルビア人が居住する


「スルプスカ共和国」 となっています


しかし線は引かれていても実際の通行はフリー 


出入りは自由です












現在のサラエヴォ市




まだところどころに戦争の名残はありますが 


立派に観光都市として復活していました


3勢力による泥沼化した戦いが終わって20年


住民たちはぎこちなく また共に暮らそうと努力しています



宗教の違いからきた「民族」紛争


それを煽った指導者に引きずられて突入した内戦


おびただしい数の犠牲者を出して やっと掴んだ平和


もう二度と離してほしくはありません







この後 私は2度ボスニアを訪れます


そのうちの1度は 3派の調停に尽力した日本人に興味を持ったから








その話は またいつか(笑)














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