ドルジ!ドルジ!

ドルジ!ドルジ!

妄言しか吐きません。

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恥の多い人生を送ってきた。

節目節目に課される努力を怠り、揺蕩うように生きてきた。
屈折した自尊心からか他人に何かを与えることはなかったが、誰よりも愛を欲しがった。もっと俺を見てくれ、もっと讃えてくれ、もっと愛してくれ、と。

弱い心を隠そうともせず、声を上げた。ある時は口頭で、ある時は文字で声を上げた。ただ忘れられることを怖がっていたのか、それとも全てを独占したいという一心からだろうか。

そして、”拠り所”を見つけてはそれに凭れて生きている。家族であったり、恋人であったり、友人であったり。テレビの中だけで存在を知っている人や、趣味にも甘えた。
全てを捧げるかのごとく、頭は対象で塗りつぶされる。対象に向けて想いを叫ぶ。
もっと近づいてくれ。もっと近づいてくれ、と。

強い力で引き寄せようとするほど爪が皮膚に食い込む。誰しもが痛い、痛いと身をよじり、逃れようともがく。離れていく。全てが手から零れ落ちる。


結局俺は自立ができていないのだろう。

しかし、現状を変える術が俺には見当たらなかった。俺がまっすぐ立つためには、何が必要なのだろうか。気づけば25歳で、俺の人生の3分の1は終わった。俺は生まれ落ちたあの時から変わっていなくて。いつまでも、いつまでも。

そう、土曜日までは。


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2016年1月30日 土曜日 15時

俺は渋谷にいた。先日入会を決めたジムに行くためだった。
何かと理由をつけて楽なほうへと逃げていたのだが、最近は不定愁訴への悩みが強まり、仕事も手につかない始末で、肉体のケアに乗り出した次第だ。

しかし心は晴れない。前日に太陽が昇り始めるまで飲んでいたせいなのか、それともただジムに行くのがめんどくさかったのか。あるいは、その両方なのか。

この日は初日ということもあり、ジムのスタッフからヒアリングを受け、現状の問題点を見つけてもらったうえで、トレーニングの基本を教わるという流れになっている。

スタッフの表情が固いのは俺が遅刻したせいなのだろうか、と若干心配になったが、常に表情を変えなかったので気にしないことにした。きっとこれが彼のいつも通りなのだろう。

まず自分の肉体の状況をチェックしてもらう。データの記載されたシートに目を落とすと、筋肉量が明らかに足りてなかった。スタッフ曰く、かなり足りていないらしい。肩こりは避けられませんね、と続けた。

そして、姿勢について言及された。

理想の姿勢というのは、耳と肩、わき腹、そして足の骨の付け根が一直線上になっていることらしい。しかし、日々のデスクワークから肩は巻き気味、背凭れに頼る生活から俺の体は衰え、ストレートネック気味になっているというのだ。

「まず無理矢理正しい姿勢を教えます」

丸まった背中を伸ばし、胸を張り、巻き気味の肩を開いた。
確かにこの姿勢は良い形なのだろうが、姿勢を維持するのがつらい。ずっと続けているのは無理だ。

俺は丁寧にその旨をスタッフに伝えると、彼はこう答えた。

「たしかにその姿勢を保ち続けるのは、現在の堀内様では難しいでしょう。理想的な姿勢を目指すには常日頃の心がけだけでは不十分です。バチンと鉄の棒を”ココに”入れなければいけないんです!」

胸を叩きながら彼は言った。その迫力に少し気圧されつつ、俺は「鉄の棒とは?」と質問した。すると、彼は間髪入れずにこう答えた。




体幹です」




そして姿勢を維持し続ける俺に対して指をパチンと鳴らし、「もどして」と命じる。

この瞬間、1人の筋肉教徒が誕生したのだ。

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俺は今まで探してきたよ。俺の足りないものを。不思議だったんだ。
なぜ俺はこんなに毎日楽しくないんだ、ってね。

普通なら

”品行方正”
”容姿端麗”
”頭脳明晰”
”清廉潔白”
”抱腹絶倒”

などなど何拍子そろっているか分からないほどパーフェクトなのに、なぜこんなにも孤独を愛でているのだろうと不思議に思うはずだ。
俺だったら思うね。え?思わない?ふーん、変わった人だね。

でもさ、昔の人っていうのはいい言葉を残すもんでさ。
「色男、金と力はなかりけり」っていうように、俺には力がなかったんだ。
パーフェクトだと思ってたけど、筋肉が足りなかったんだよ。似非パーフェクト。俺には”perfect body”が足りなかったんだ。

俺が心に闇を抱えてしまったのもすべて「筋肉」にあったんだろう。筋肉が足りないから何かに依存してしまうんだろう。
バチンと”鉄の棒”を差し込まないと明日は輝かないのかもしれないね。

筋肉があれば姿勢が変わる、姿勢が変われば顔つきが変わる、顔つきが変われば心が変わる、心が変われば世界が変わる。

筋肉、そう筋肉だった。
大切なことはすべて(ジムの)マッスルが教えてくれた。
そんな土曜日だったんだ。

思い返すと筋肉のある人はいつだって前向きだ。
もちろんその人の性質も関係しているが、「筋肉を喜ばせること」で生まれる強さもある。

プロスポーツ選手は女子アナを落とそうと最高の笑顔でプレイしているし、エグザイルはレモンサワーとダンスと筋肉があれば生きていけるだろう。
お笑い芸人も筋肉芸をする人はいつだって笑顔だ。(筋肉留学……うっ!頭がっ!)

(参考)





前向きに、何かに頼ることなく生きる。
それは簡単なことじゃない。少なくとも俺には難しいことだった。

でも、筋肉のある俺ならどうだろう。肉の鎧が心をコーティングしてくれれば、あるいは……。
また1つ、この世界を統べる神へと近づいてしまうのだろう。
この筋肉への強い想いが、新しい帝国を作るのだ。

オール・ハイル・マッスル!
オール・ハイル・マッスル!
――なあ、きんに君。願いとは筋肉に似ていないか?


筋肉が時代を作るんだ。俺はゼロ、筋肉を壊し、筋肉を作る者。
超回復の理論だけは誰よりも詳しいぜ?(アイシールド21に書いてあったので)


俺はこれからmuscler(和訳:きんに君)を目指して明日を勝ち取ろうと思っている。最後のピースは見つかった。筋肉だった。インナーマッスルだった。
幸せは、歩いてこない、だから筋肉!筋肉をつけるんだ!筋肉さえあれば明日はきっといい日になる!いい日になる!いい日になるでしょう!



俺「だからお前も筋肉つけようぜ?鉄の棒だよ、バチンとさ」

友人1「頭おかしいの?堀内やべえよ、脳筋じゃねえか」


筋肉が、聞こえる……。
「セックスってのは命をつなげるために大切な”本能”なんだよ!?」

再三になるかもしれないが、昔からこの言葉が嫌いだ。
性に奔放な方々は自己を正当化するために、すぐ覚えたての言葉を使う。

「ドラスティックなセックスをするために、あえての野外よ?」
「俺たちはスワッピングをしたい、お前はしたくない、となればマイノリティはどちらかな?」
「君は性に対してパラノイア的な部分があるよね」
「言うなれば、テンガはオマージュにすぎないんだよ」
「俺の先っぽからプレランニングウォーラー(和名:先走り汁)がリークしちゃったよぉl」

人は自分の立ち位置を高めようとするときに、安易に難しい言葉を使いたがるものだ。ナンチャッテ英語を使い、大柴化(ヒント:ルー)する者も多く、マジでムーンにフィットなんだよ。


その話はどうでもいい。藪からスティックな話を広げてしまい、誠にソーリー。
so、「本能」な。カタカナ英語のくだりも忘れてほしい。こっからが本当の勝負。本当のミーがデビューするタイムだからね。


たしかにセックスは動物の本能だということに異論はない。種の繁栄のためには自己のパッション(say液)を着床(released into the vagina)させなければならない。その意味でいえば、確かにセックスは命をかけたまさに決闘、二人だけのジハードとも言える。

では、「セックスは本能」サイド(英語で言えば sex is honnno-)に問いたい。

「避妊はしていますか?」
とね。


私たち人間は、懐妊したからと言って必ずしも子を産めるわけではない。流産・死産ある中で、非常に残念ながら「堕胎」という選択肢もある。
お金が、身分が、相手が……理由はそれぞれだ。でもそういうのって悲しいじゃない。
そのような背景から、望まれない妊娠を避けるために、「避妊具」というものが生まれました。

はてさて、望まれない妊娠とは何でしょうか。
「セックスは本能」「種の繁栄」と言うてはりましたなぁ。ケンケンよう鳴きはりましたわ!
セックスの際に「避妊」を選んでしまっている時点で、その論述に整合性はない。
確かに三大欲求は本能の一部だが、少なくとも「種の繁栄」からは明らかに逸脱している。脂汗かいてどうしたんだぁい?異論は?言わせねえよ!お前が突ける穴はここにねえ。五反田あたりにでも行っておけ。

言えばいい。「気持ちいいことがしたくてセックスしました」「すっごいでました」「抜けなくなりました」とかそういう明け透けな感じ、嫌いじゃないよ。
勝手に言えよ。恥ずかしがってるの?恥ずかしいと思う生き方をするのが恥ずかしいよ。

「欲求に負けてます」「というより忠実です」「私の本能は股間に宿ります」
ちっとも間違ったことじゃない。あなたがそれで良いなら、それが答えだよ。


”迷わず行けよ、行けばわかるさ”

ブータン国の大統領が言った言葉です。蓋し至言ではないでしょうか。
迷った挙句に言葉で煙に巻くのは潔くないじゃない。歯切れの悪い言葉は捨てて、そのままで話してください。正当化しなくても、間違っていてもあなたはあなたですから。



でももし、
「精子は注ぎ込んでナンボでしょ!NO HININ IS POWER !」

という方がいるなら俺の負けです。
もう負け負け。勝てないよ。その愛は貫け。妊娠が運命だというのであれば、もうアンタが大将。好きな女と末永くお幸せに!クラブでさっき出会った?へぇ~、そう。認知はしろよ!それはモラルではなくマナーだからな。
唐突だが、僕は肉まんに対する思い入れがない。世間一般レベルの感想しか抱けない。

しかし、思い返してみると「肉まん」という単語は口にしたことが多い。

「お前、肉まんみてえな顔してるな」
「肉まんよりかわいくない」
「おい、おっきな声で情感たっぷりに”肉まん”って言ってみろよ……」「ダメ……あんまんが見てる……!」

こうしてみると「揶揄」あるいは「猥褻物」として肉まんを扱ってきていた。げに恥ずかしい。
勝手に肉まんのことを表現技法の1つとして採用していた節があるのも否めない。

しかし、僕は今だから思う。肉まんに対する熱いパッションがなければ、肉まんを語る資格はない、と。

「毎食肉まんで良い」
「肉まんに対して冷静ではいられないし、肉まんを思うと夜も眠れない」
「肉まん肉まん肉まん肉まん!まん肉!まん肉!まん肉!」

このような気持ちを一度だって抱いたことはない。
上で挙げた例はすべてポジティブな感情だけれども、もちろん悪意を吐き出したって構わない。肉まんはまずい、肉まんを見ていると憎悪が噴き出す、肉まんに親を殺された……などのネガティブな感情も、人間を突き動かす原動力になる。

こういった方々は肉まんを語る資格がある。価値がある。
好悪はあれど、肉まんに想いを馳せているからだ。肉まんに向き合い、肉まんに没頭したからだ。



一方、僕のように
「ピザまんが好きです」と臆面もなく発することができる人間が肉まんを語るのは冒涜以外の何物でもない。肉まんそのものにも失礼だし、肉まんファン・肉まんアンチの気持ちを踏みにじっていると言えるだろう。


何かについて話すことを得意とする人もいれば、苦手とする人もいる。
得手不得手はあるはずだから仕方がない話だ。しかし、話すことが得意だからと言って、ぬるま湯のような熱意で何かを語るなよ。そんなのずるくないですか?その対象を心から愛している人がいるとしたら、あなたはどうする? そんなもんヤリチンと同じだろう。

あなたが戯れに抱いたえみちゃん(48)(元処女)はたかし(53)(童貞)が狂おしいほど愛していたのかもしれないのに……。

つまりそういうことです!対象が肉まんだとしてもえみちゃん(重い更年期が悩み)(セカンドバージン)だとしても同じこと。簡単に語っちゃいけないし、簡単に処女も奪っちゃいけないんです。


もちろん、そんなことは無理だと思っている。関心がなくても人は肉まんを語るかもしれないし、好きな人はヤリチン・ヤリマンに利用され・開発され、純情な感情を空回りさせてるかもしれない。とかくこの世は生きにくい。

だって正直なところ今回も「主テーマ:肉まん で日記を書いてみて」という要求に答えただけだ。肉まんなんて興味ねえよ……。肉まんを利用して文章を書きながら「生半可な気持ちで肉まんを語るな!」とか発想が支離滅裂すぎる。


でも、人とのコミュニケーションを考える上で、今回の主張はあまり間違っていないような気がする。
何の気なし発した言葉や行動が誰かを傷つけているかもしれないから。想いのない人が誰かの想いを踏みにじるのは悲しいから。自戒の意を込めて。





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>「おい、おっきな声で情感たっぷりに”肉まん”って言ってみろよ……」「ダメ……あんまんが見てる……!」

ここが書きたかっただけです。推敲はしません。
人や物をカテゴライズすること。
誰かに何かを伝える時に、もしくは状況を整理するときに効果的なスキルだと言えます。

カテゴライズすること自体を批判をする気はありません。
ですが、物事や人を簡易化しようとするあまり、2種類に振り分けようとする方がいますが、あれは一体なんだい?いったいどういうご了見。
ということで、今回手前から二元論者に喧嘩を売ってやりんす上等よ、という形ではじめていきたいと思います。


といっても、二元論について言及し始めたらキリがない。善か悪かなんて話を始めたら宗教チックでよくわかりませんし、孟子だの孔子だの荀子だのを登場させなければなりません。偏差値2ぐらいの僕としてもそれだけは避けたい。
ですので、「男女二元論」に限定して話を進めさせていただきます。


僕は友達が少なければ知人も少ない。そのため、出会った人の数も皆様と比べてごくごく少数なはず。そんな中にも必ずいるんだよ、「男」「女」のどちらかに当てはめるやつってのは。

「男ってそういうとこあるよね~」
「しょうがないよ~、女だし」

Be quiet!の一言である。
静かに、呼吸を止めてこの橋を渡るんだ。カエルが出ても息するな。赤子泣いても蓋とるな。脳みそに酸素が供給されなくなるその時まで息を止めてくれ。

今全世界に何十億人のメンズとレディースが息づいているのか知ってるんだろうな、アァーン?。
あなたがどのような経験を積んできたのかは見当がつきませんが、お前ごとき一部の経験を全体化して男か女かを語るだなんておこがましいとおもわんか、なあBJさんよぉ!俺の中の本間丈太郎も叫ぶ。


分母が少なくなればその分限定も甘くなる。
世の中の人間を2つに分けようだなんて発想が甘すぎる。スウィングする奴もいればスウィングしない奴もいる。でもきっと、スウィングできないやつだっているはずだし、スウィングなんて知らないけどスウィングしている奴だっている。


「男=●●だから、男のあなたは●●なのよ!」
「女=△△だから、女のお前は△△だな!」

たしかに自分の中の判断基準は自由です。男を嫌悪したり、女見下したり、そういう人がいてもいいと思う。
でも、そんなの失礼じゃない?堂々と「私はあなたに向き合っていません」と宣言するようなものでしょう。
「あなたの細かい部分とかよく知らないけど、男女のどちらかに区分されるから」

性差というものは少なからずあると思うので、「男女のどちらかに区分される」ということは必ずしも否定できないと思う。
でもそれってあくまで形而下を中心とした話じゃないですか?ジェンダーよりも明確なセクシュアルな区分だろ? 肉竿があって、蜜壺があって。
「出会って2秒ではちみつ食べたいなぁ。エッチなくまさんは蜜壺が大好き!」ってなもんよ。そういうもんです。

結局のところ、人と向き合っていないんですよね、男女二元論派の方々は。
面倒だからと出会う人々を自分のルールに当てはめて、置き換えて。まるで流れ作業。ベルトコンベアーのようなコミュニケーションじゃないですか。
オス・メス・オッスオッス! ひよこ鑑定士気取りも大概にしてほしい。


話のさわりだけ聞いて「はい、男~!」「はい、女~!」ってのはあまりに雑だ。
興味がないのは結構ですが、そんなもんでカテゴライズしないでください。
あんたの物差しで勝手に測るなよ。理解する気がないなら語るなよ。
オリコン調べよりも眉唾な、独自調べの統計学に巻き込むのだけは勘弁願いたい。


久方ぶりのブログで取り留めのない話になってしまいましたが、言いたいことはただ一つ。
しっかりと俺に向き合ってほしい。そう、俺を見て。ほら、今の俺ってこんなに剥き出し!防御力ゼロ!背水の陣!俺は生きてるよ!俺だって人間だよ!
え?男?女?知らんよ。世の中すべて俺 or NOT!もう何でもよくない?俺さえ元気で笑顔なら。みんな幸せ。みんな笑顔。みんな仲良し。
さあ、俺の笑顔を曇らせないで。しょぼくれ顔は似合わないぞ!って言って!ねえ、早く!hurry!


今年も皆様よろしくお願いいたします。

ちなみに、あと4か月で26歳です。
 本日は四年間通った大学の卒業式でした。サークルにも所属していない僕は友人がとても少なかったのだけれど、数少ない友人と写真を撮り、とても充実した時間が過ごせたのではないでしょうか。

 不真面目な僕は毎年留年ギリギリで進級していたので、卒業できたことすら幸運に近いようなものです。様々な友人に助けられ、なんとか卒業までたどり着くことができました。ギブアンドテイク、の体をなさないほど与えられていた四年間だったと思います。

 大学生活は心底充実していた、と断言できないもので、退屈を持て余していたように思います。だけれども、退屈ばかりだった・入る大学を間違えただなんて思えないのはクラスの存在が大きかったと思います。

 元来人見知りの性格ゆえ、友達ができないのではないか。一人で四年間過ごすのではないか。そういった危惧が少なからず入学時にはありました。そういった不安を取り除いてくれたのはクラスでした。たまたま同じクラスになっただけで必ずしも性格の合うような子たちばかりではなかったのですが、いつも僕の居場所でいてくれたことはとてもありがたかった。口の悪い僕は最初から悪態をつき、友人からしてみれば決して良いイメージはなかったと思います。ですが、僕の性格を徐々に受け入れてくれた。
 前述のとおり、みんながみんな相性がよかったわけではなかっただろうけれど、同じ時間を共有する事によって、文句もある、陰口だってもちろんあるけれど、クラスは居場所としてそこにあるようになったのではないでしょうか。少なくとも僕はそう感じています。

 卒業という時間も、全員が全員同じ場所にいたわけではありませんが、集まることが自然と言わんばかりに一緒にいれたことはとても嬉しいことでした。

 柄にもなく最後に感情的になってしまった瞬間もありました。嬉しいけど、寂しくて、悲しくて、悔しくて。でもなんだかんだ楽しくて。自分でも気付かないほどクラスは僕の中で大きかったということに、終わりが近づくにつれて実感していきました。

 僕らは口々に「これが最後じゃない」と言い合って。それは蓋し正しいと思う。でも、間違っていることもある。僕らの居場所であった食堂のあの場所も、教室での時間も、もう味わえないことはみんなわかっていて。つなぎとめる様な最後の言葉が悲しくて。

 Eクラスの、仲良くしていた形は変わっていきます。それぞれがそれぞれの道を歩き始めるのはチープなJポップの歌詞だけではないようで。

 それでも大切な時間だったと心から思うし、かけがえのない人たちだと思う。


 決して親友だと思っていないし、不思議と思いたくもない。でも、サークルにも入っていない僕にとって、大学生活はこのクラスありきだった。始まりも終わりもE組で飾れて僕は心から嬉しくてとても泣きそうな気持ちになりました。面と向かって言うのは恥ずかしいので。あまりにポエミーで、野暮ったいのも承知していますが、最後だから許していただきたい。。
 ありがとうございました。





 完全無職 ニート代表 堀内





 

 し ご と く だ さ い