帆干山 操山山麓西の鼻
我が故郷はありがたきかな、平井はかつて荒野庄と言われ穀物も育たなかったのか、しかし硬い岩盤は西の鹿田庄へと繋がり、自然の恵みを享受してきた。
古墳時代は穴海と呼ばれた岡山平野の中にあって、我が裏山は漁師達が、漁船が網を干す為に使われた山であり、海岸線は網濱と呼ばれていた。操山山系の西の鼻にある小山は、かつて帆干山と呼ばれていた。
数々のドラマがあった帆干山、かつては黒松が沢山生えていたが、後に岡山放送局が開局した山と向かい合っている。 我が家の裏山は、「西の鼻」と呼ばれた操山山系の西の端に当たり、我が家の親屋も西の家と呼んでいた。また、源平合戦の際は源氏方の佐々木盛綱が軍馬2、000頭を引き連れて帆干山から穴海だった遠浅の藤戸まで追い詰めたとの伝説が残っている。最後の藤戸では手前に流れの早い深みがあり、地元の漁師に流れの早い場所を避けて島に渡れる唯一のコースを聞き出した。油断していた平家の軍を急襲し、難なく大打撃を与え、そのあと平家は屋島、壇ノ浦へと追い詰められることになる。
佐々木盛綱の末裔が児島に造営した玉井宮が、現在の門田屋敷に移築されている。その理由は、高島神社に戦勝を祈願した佐々木盛綱が、勝利したことで、高島に灯台を寄贈し今も児島湾上に浮かぶ、高島にその跡を見ることが出来る。又、南北朝時代の頃、楠(くすのき)正成(まさしげ)、正行(まさつら)親子が、南朝の後醍醐天皇を守る為、この山で秘策を練り、遠浅の海を駆け抜けて、福山の合戦に駆け付けたが、あえなく敗れ、自刃したという歴史がある。後醍醐天皇はその後隠岐の島へと島流しになったが、正史では、南朝は後醍醐天皇で滅んだと言われる。しかし秘史では、後醍醐天皇は隠岐の島に於いて、地元の歓迎を受け、晩年になった後醍醐天皇をお慰めしようとして、闘牛をしたという記録が有る。ところが秘かに美作の地に植月御所を造営し、植月氏が南朝の血脈を守り通し五代続いたという。当時の津山藩主 森家の保護を受けたが、津山藩は外様大名だったため、北朝を支持する徳川家からは、嫌われており、機を見て森藩主を毒殺して、津山藩主に松平氏を送り込んだ経緯がある。 後に後醍醐天皇には罪が無い事がわかり、隠岐の島から脱出し、これまで歴史に記録されなかったものの奈良県に墓所がある。現在の天皇も南朝系だ。
また帆干山では、昭和の時代になって、弾丸列車を通すという計画が沸いた。明治以来、富国強兵を標榜する日本は戦争準備に最も必要なインフラである鉄道の造営を急いだものの、大東亜戦争が近くなり、鋼材を戦争優先に使う必要から、急遽この計画は無くなった。弾丸列車というのは古老から聴いた話では、今の新幹線に値するもので、これが実現していたならば平井の地に岡山駅が出来ていたかもしれない。
弾丸列車が実現していたとしても、弾丸列車や帆干山は空爆の標的にされただろう。 皮肉なことに帆干山は太平洋戦争末期には防空壕にも使われ、焼夷弾の投下もあり、我が家も空爆を受けたが、防空壕のお陰で、命をつなぐ事が出来、今に至っている。 
ここで私の、和歌を披露します
新幹線に乗ってみたいと世が世なら平井の山を駆け抜けて
穴海に面した漁師の片田舎、白魚獲った網干す濱に
二千騎の軍馬引き連れ穴海に入りし盛綱平家を追って
今ならば報道できた放送局で楠親子の晴れの舞台を
網の浜古墳に聳える大木に古人の苦労を偲ぶ
松田配下の平井城古戦場跡も竹林となりぬ
権八井戸あればこそ水のみ百姓命を繋ぐ
先人は記録に残せと大石に軍馬の記憶足跡刻み
操山西に位置する西の鼻我が故郷は自然の宝庫
