私が、三蟠鉄道研究会で分かったことは、いろいろあるが、三蟠軽便鉄道は、三蟠から海を隔てた飽浦まで、渡し舟で渡っていたことを知り、それも鉄道切符は、渡し舟との通し切符だったことで、 飽浦にはとても親近感があった。
何度も飽浦には足を運び、景色や神社巡りもしだが、私も岡山の 地名研究会のメンバーなので、新たにブログを立ち上げました。地元の歴史を大勢の方に知って頂ければ幸いです。
先ず、飽浦を知ってもらうために、和歌を紹介します。
網引する海女とか見らむ飽の浦の清きありそを見に来し吾を
意解 (網引きする漁師と人は見るであろうか。飽浦の清き荒礒を見に来た自分を)
柿本人麻呂
出展 万葉集(柿本人麻呂歌集)
飽浦は現在の倉敷市を起点とし玉野市を経て岡山市南区に至る地域であるが県道で繋がってる。網引するとあるので、現在の児島湾大橋から西の児島湾締切り堤防に至る海岸線の位置になる。人麻呂の時代に既に魚を捕獲する投網あるいは流し網をして大人も子供も一緒になって、声をかけながら綱を引いたであろう。通りかかった作者自身夢中になって、つい漁師の気分になったと思われる。私も愛媛県三本松で地引網に参加したことがあり、大勢で掛け声をしてお祭り気分になったことが懐かしい。最近あまり見られなくなったが地引網は沖合に網を張って一定時間経つと大勢で引き揚げる漁法だ。近世に三蟠では四つ手網漁が盛んとなり、岡山市中区の網浜地区も、かつて流し網漁法であったと想像できる。古代には、岡山平野は穴海と呼ばれていたことから旭川も後に造った人工的な川であるから納得できる。
さて、飽浦稲荷宮いなりぐう社史によると、源平合戦の頃、源氏方の武将、佐々木三郎盛綱は藤戸に陣を張った平家を追い詰める為、事前に海を司る飽浦の地にある素戔嗚すさのおの神社に立ち寄り、戦勝祈願した。平家物語には「藤戸の渡し」として有名で太平記にも載っている。後に佐々木三郎盛綱は、その戦功として将軍源頼朝から児島全土と小豆島一帯の広範囲な領地を賜った。そこで飽浦の地に居城を設けたのが、現在岡山市南区の高山城跡である。地名にちなんで盛綱は後に「飽浦三郎」と改名している。飽浦神社は京都の伏見稲荷から飽浦三郎の子孫が御霊を勧請して以来、今は飽浦稲荷宮となっている。かつて児島にあった玉井宮は、現在岡山市中区の東山地区に鎮座しているが、宮司は代々、佐々木姓と聞く。
飽浦は元々塩を造った地域とされるが、諸説あるようだ。瀬戸内海に浮かぶ塩飽諸島は塩が湧くという縁起の良い名前だが、海賊の島として、四悪諸島から転じた名前とも。
また、源平合戦の折、飽浦という地名は現在の浅口郡井原市寄島町には大浦神社、(安倉あくら八幡神社)がある。岡山市南区の飽浦と共通してるのは双方素戔嗚尊(すさのおのみこと)を祀っていることだ。
また、どちらもかつて神功皇后が三韓征伐の帰り、瀬戸内海を帰る途中、赤子を産み落とした(後の応神天皇)が、その後元気になられ、おつきの侍従に「私のくらはどれか」と聴いた。(寄島町史)くらは腰掛の意味だが、どうやら馬の鞍らしい。音読みで安倉は飽浦と同じ。又岡山県内では倉安川と言う世界遺産にもなった川は「馬の鞍より安い」から来た宣伝文句であり、合通じるものがある。漢字の音はすべて当て字で奥深いものがある。
古代には児島は大きな島であり、瀬戸内海航路の本流は児島の北側にあったから、神功皇后一行も、児島の北側を通ったと納得できる。
又、後の大正4年に開通した三蟠から国清寺まで走った三蟠軽便鉄道は渡し舟で飽浦と繋がり、鉄道の切符は国清寺迄の通し切符で繋がっていた。よって飽浦の地は昔から相当賑わっていたようだ。
私の和歌を二首、紹介します。
☆ わっしょいと掛け声出したか網引きで大人も子供も祭り気分で
☆ 飽浦にて神功皇后赤子産み爺やが抱いて今掛け軸に
飽浦稲荷宮

