3月25日付け投稿した記事(以下「前回記事②」という)についての続編で、その旧河路跡の北端部(赤枠)からの上流がどの様な河路(以下「不確定流路」という)であったのか?の探索について記します。

但し、推測論100%の為、予めご容赦願います。


『【荒川】瀬替え前の旧流路 〜 その②』前回の続編になります。『【荒川】久下の瀬替え前の旧流路 〜 その①』最近、荒川の瀬替えに興味を持ち、色々サイトを観ている際に、表題の「荒川の流路は、寛永6年の…リンクameblo.jp



治水地形分類図




前回記事②の流路(以下「前砂〜小谷ルート」と仮称します)は、現在の空撮画像を観ただけで旧河路であった痕跡を確認できますが、国土地理院の「治水地形分類図」においても「旧河道(明瞭)」との表示されているので、此処に旧河路があった事が明確に判断できます。

これに対して、その上流部分の不確定流路について、上図の蛇行旧流路の周辺部分は「旧河道(不明瞭)」となってはいるものの、過去の空撮画像を観ても耕田開発や宅地化が進んだ事によって当時の痕跡を確認出来ず、これ以上の解読・追跡は困難な状況です。


その中で私が着目した部分は、上図の不明瞭ルート赤③と「石田堤*」との関連性、且つ水辺公園周囲に在る田圃の区割りが変化する前の形跡です。


*石田堤については、下記URLの国交省関東地方整備局のサイトにてご確認下さい。


https://www.ktr.mlit.go.jp/ktr_content/content/000670313.pdf



第一として、この石田堤の一部分については、上記サイトにも忍城水攻めの為に「既に存在していた自然堤防を人工的に嵩上げした。」とありますが、では石田堤の一部が現存するこの箇所も同様であったと仮定した場合、「この自然堤防はいつ、どの様に形成されたのか?」という点です。


先ず上図の不明瞭③と現状付近に在る河川との流路変化の関連性に触れますが、新忍川の流路は「人工掘削」と言われている為、この河川とは別に石田堤の築造前にこの場所で自然堤防及び、水田となる低湿地帯を形成した③の流路を保った河川の存在があった筈です。

次に現地を確認して解った事ですが、この石田堤が現存する部分は周辺と比べ、地盤面がかなり高い位置にある(下記画像❶参照)という点と現地に在る石田堤断面のレプリカを観ても、その全てが「人工的な盛り土」であったことです。


画像❶


この画像は現存する水路の流れを基に、周囲の高低差を確認したものになります。

また、石田堤周辺の地盤傾斜については緑矢印、周囲の最高地盤面を黄色線にて表示しました。


現存する石田堤の両サイドには水路(画像❶の青①②)が存在しているので、現地を確認する以前の机上段階では、この水路のどちらかが旧河川跡ではないかと推測していました。

(青字の水路①水路②の番号表示箇所を起点に水路の流れが振り分けられていることから、この場所が最高地盤面であることが判ります。)

しかしながら、前述の通り石田堤が現存する地点は地盤レベルが周辺よりかなり高い位置に在る為、この水路①②と不確定流路との関連性はないものと思われます。


更に現地を観て、石田堤箇所から北側(地図左側)に位置する水田地帯は、この石田堤よりも地盤面がかなり低く、河川による浸食を受けたと思われる痕跡があった為、この低地部分を形成した旧河川の存在を探る事にしました。

石田堤周辺で地盤が高い箇所は黄色の線で示した部分となり、この黄色の線を境に両サイドへ地盤が傾斜しています。


画像❷〜青②地点から北側方向

画像中段の交差する道路先から地盤が下がっています。


1m以上の段丘が形成されています。


画像❸〜青④地点から南東方向


この部分でも急激に地盤面が下がっていきます。


画像❹〜青①地点から南側方向


青①方向でもかなりの段丘が確認できます。

更にこの場所から石田堤との間でも若干の段丘が在りました。


この河岸段丘は堆積されたものが相当な流れの河川によって、浸食を繰り返されたものと推測出来ます。


第二に水辺公園の旧河路跡部分については、更に古い空撮画像❺を遡って確認すると、今まで観ていた空撮画像❻とは田圃の区割りが異なり、旧流路跡と思われる痕跡に気が付きました。


画像❺196011


画像❻19751



年代の異なる2つの画像を見比べてみると、画像❺では蛇行した旧河路外周部分に沿って田圃が区割りされているのに対し、画像❻では区割りが改良された形跡が読み取れます。

画像❺の区割りの形状は、蛇行した旧流路が形成される以前から存在する更に古い流路で生じた地形に合わせて新田開発された流路の痕跡ではないかと思われます。

その後に何かしらの事情によって区割り改良された関係で、それまで画像❻にて確認していた段階では気付く事ができませんでした。


上記のことから、不確定流路は以下画像の赤線で示した流路が有望ではないかと想定しました。




古き時代に赤①と赤③が存在し、この水辺公園部分で合流した後に、赤②「前砂〜小谷ルート」へと流れ、幅員のある河川跡を形成した。

その後、赤②上流部分で流路変更によって廃路となり、更に赤①②部分も水辺公園の蛇行跡へと流路が移行した為、前砂〜小谷ルートも同じく廃路となったのではないかと推測しています。