荒川の「瀬替え」を調べていると「備前堤」についての述部書が目に付き、瀬替えと同時に「備前堤」を調べていくと、その目的に疑問点が生じました。

更にネット上で調べていくに連れて、備前堤の目的や築造時期など複数の個人見解が乱立しており、何が真実なのか掴み難くなってしまいました。


A - 疑問点

①備前堤下流域の河路を綾瀬川筋から、現在の元荒川筋へ流路変更した経緯

②赤堀川の流路変更の目的

③上記①②による備前堤の築造時期


B - ネット上での情報

①綾瀬川下流域での治水・新田開発説、若しくは元荒川下流域での水量確保説

②綾瀬川下流域の治水

1610年、1629年、室町時代など様々


C - 個人的見解

①綾瀬川が旧荒川(元荒川)筋であった事は、下流域の地歴を観ても賛同できますが、流路変更の経緯で下記②との関連性に別の要因があったのでは?

 赤堀川の水源地を鑑みると、その流量では綾瀬川下流域で氾濫が生ずるとは考え難い為、上記①綾瀬川の瀬替えだけで充分だったのでは?

しかし、備前堤の形状を考察すると、此処で赤堀川の流路を変える目的であったのは明確ですが、その必要性があったのは、赤堀川の存在が以前と現在では大きな違いがあったのでは?

1629年は荒川の瀬替え時期と重なり、同時期の築造はどうなのか?

次に、古文書には1610年と明記されていたようだが、その19年後の間に「荒川の瀬替え」を施さなければならない余程の事態に転じたのか?

事業計画は精査していたのか疑問が残る?


D - その他

備前堤直下の元荒川筋は自然流路であったのか?(蓮田市高虫周辺の地質は下図を観ても他所とは異なる為、人造的ルート?)


上記疑問点を自己解決させる上でも、先ず現地を確認して来ました。



綾瀬川起点

赤堀川(流路変更部分)


備前堤(元荒川方向)

元荒川と赤堀川の合流部分

元荒川と野通川の合流箇所

今回、現地確認の一番の目的は、、、

上記で挙げた「D - その他」の
蓮田市高虫地区周辺の土地形状でした。

国土地理院(治水地形分類図)


国土地理院(土地条件図)




上図を観ると蓮田市高虫周辺地域は、河川路前後の低地と比較しても台地部分の侵食が極めて少なく、氾濫平地のない事が読取れます。

そこで、「台地部分を掘削して人造的に流路を変え、野通川へ付け替えた可能性」を感じました。


備前堤〜野通川の中間地点の状況



肉眼では備前堤付近との高低差は感じられず、地形的にも特段の違いを確認することは出来ませんでした。

これによって自身の空想は薄れましたが、未だ没とは判断していません。
但し、これを立証するためには、堆積した土壌調査、従前居住者の言い伝え確認の2点が必要であると考えます。

上記の疑問要素が残るものの、現段階においては備前堤箇所で綾瀬川筋と元荒川筋に分流していたとの「総合治水事務所*」さんで解説している従来の考え方が適当だと思います。


*総合治水事務所のサイト



上記の通り、結局は現地を観て解決に至りませんでしたが、、、


その中でも、、、


備前堤端部に設置、された「桶川市教育委員会の史跡」の解説文について



この史跡板には、上記A-②に該当し、その理由付けは、B -②であると説明しています。


史跡板画像中の赤枠①「赤堀川流路を直角に」は良いのですが、「旧荒川筋であった綾瀬川を元荒川筋へ瀬替え」については触れていません。

上記を踏まえると赤枠②については、「赤堀川の流量だけが下流域へ水害を与えている」との解釈になります。

グレーゾーンについては、敢えて触れなかったとも解釈出来ますが、、、

何をデータベースとしたのか?桶川市教育委員会へ問い合わせた回答を待ちたいと思います。


現存する述部には根拠・裏付けが不明瞭な部分も多く、結局は伊奈忠次さんにお聞きしないと判らないことが多くあります。

私は旧流路の歴史について、最近興味を持ち始めた新参者の凡人に過ぎませんが、歴史上の経緯を想像するのは非常に面白さがあると思います。