母は、いまだに現役バリバリで仕事をやっているので、家に帰るのは、7時をまわる。それから、食事を作るので、時間に余裕が出来るのは、9時以降だ。アメリカ時間は、日本時間と逆なので、日本時間の夜にアメリカから電話をかけるなら、朝の8時ごろになる。電話をしたら、やはり、時間をかけて聞いてみたら、既に数箇所に転移しているらしい。

医者が言うには、「月末に家族で来てください」と言っていたので、恐らくかなり末期ではないかと、母は、想像している。韓国旅行に一度ぐらいは行きたかったとか言い出すので、こちらも、まだ、何も分からない状態だから、いつでもいけるよ2時間だからと言っておいた。

母から父の様子を聞くと病院の部屋が空かないので、部屋待ちとのこと。複雑な思いもするばかり。やはり、医者任せになると不安ばかりがつのるので、アマゾンで、食事療法が癌に効くという「今あるガンが消えていく食事 」(済陽 高穂)が目に付いたので、その人の著書を3冊注文しておいた。

食事で、治るのらいいねと言っていたが、何かのきっかけを探したいのは、家族はみんな同じ。届くのは、医者に行った後の4/1-8と表示してあったので、もう少し早く届くようにした方が良かったかなと気がついたが遅かった。いずれにせよ、無知ほど怖いものはないので、まずは、みんなで理解しあえるように勉強できればいいが。

後は、いつものようにビジネスの話。母は、私とビジネスの話をするのが好きという変わり者だ。最近、バブル期に、事業拡大する時に、もう少し慎重にやればよかったと後悔の愚痴をこぼす。しかし、それは、結果論。いいときもあれば悪い時もある。それがビジネスってものだし、最悪を考えれない人がビジネスをすべきでないし、最悪をどのように受け止めるかもビジネスの重要な要素でもあるはずだ。

ビジネスも人生もそういう意味では、同じだろう。いまだに鬼のように働き続ける両親に、講釈たれても説得力もないというのが現実。両親よりも長く生きた私が尊敬する人の自叙伝もその3冊に加えて注文した。「何、送ってきてんだ」と怒られる方がこちらは、ほっとするけどね。まずは、やれるところからか。
今日、母に電話したら、月末に、転移したと思われる小さい方の癌細胞を抗がん剤を投与して解決しようとするらしい。ネットなどでは、肝臓癌は、余り適していないと語られているが、私に別の方法がある訳でもないので、なんとも言えず、複雑な気分である。何でも、抗がん剤が父の体に適応するかどうかを試す意味もあるようである。1週間ぐらい投与したあと、1ヶ月ぐらい様子を見て、その後、背骨に近い部分の肝臓癌を手術するかどうかを決断すると言う順序らしい。ビジネスで興亡盛衰を見た父が人生の最後で闘病生活になると言うのも、本当に人生の意味を改めて考えさせられる。

父は、生まれた時に、足が悪く、びっこをひいたような歩き方だった。だから、靴のサイズが左右違っていた。その分、勉強で見返してやろうと思いっきり勉強したらしい。しかし、祖父の方針で、高校に行かしてもらえなくて、中卒で、丁稚奉公に行ったらしい。中学の担任が祖父にあって、父に高校に生かしてくれと頼みに来たが、祖父は、まったく聞き入れず、父は、丁稚奉公に出されて、商売のいろはを叩上げられたという。私の誕生と共に、生家を離れて、父は、私達家族を連れてビジネスを始めた。小さな店を持った家族は、「よそもの」の名の中で、全てを始めなければなかった。

水をかけられ、看板を潰され、それでも、続けてきた父の原動力は、幼い頃に受けてきた迫害である。足が不自由であった父が、勉強で見返してやろうと思い、勉強したが、高校にも行くことができず、裸一貫で叩上げてきた自信は、ある意味で、息子の自分が言うのもなんだがある意味で、強烈な世界があった。幼い私が、店に顔を出すと父は、決まって、「ここは、戦場だ。お前が顔を出す場ではない」と叫んでいたのを今でも思い出す。

現在は、その面影もなく老けてしまった父を思いながら、電話で話をした。「心配かけてすまない」と言うのが父の答えだった。それは、こっちのせりふである。弱々しくなっていく父の姿が余計に痛く感じる。こんな、自分の思いを察したのか、しばらくは帰国しなくてもいいと母は、自分に伝えた。父が入院する同日に、母は、別の病院で、どれくらい悪い乳がんなのかを宣告を受けるが、それまでは、店に出て、全力で、働くと語った。だから、お前が来てもかまってやる時間がないという。複雑な思いがするが、さすが私の母だと誇らしく思った。家の中での母の存在は、余りにも大きい。
父が、兄に連れられて、大学病院で、今後の癌治療の予定を聞きに言ったそうだ。月末に、抗がん剤を1週間ほど適用して、転位している小さな部分のがん細胞を処理するらしい。よく、抗がん剤は、まったく意味がないと世間では言われている。私は、専門ではないのでそれは事実は、よく分からないし、全く別の方法を知っている訳でもない。今日は、ネットで、肝臓癌と乳癌の詳細をずっと調べていた。知識が本当に皆無なので、基本的な事を知らないとどうしようもない。とにかく、自分が、冷静に行うべき事を確実にするしかない。

私が母の異変に気付いて、癌の告知を聞き出したのと同様に、嫁さんが、状況を詳しく知りたいと迫ってきたので、説明した。何も出来ない事がどれくらいつらいかは、自分が分かるので、その輪を広げるために、話したくなかったが、「痛みを共有するのが家族でしょ」と言われた。その通り、苦しいもの悲しいもの辛いもの、無力であっても、それを共有するのが、愛である。全ての国民が体験したことだ。とにかく、頑張るしかない。
とんでもない、震災が起きた。幸いにも、関西は、大きな影響を受けていない。しかし、阪神大震災を経験した関西の人々の心の傷は、余りにも深い。しかし、今回の東北震災は、それレベルではない。生きているだけで、感謝であると思えるほどの悲惨さだった。

生きたくても生きれない人がいる。一瞬で吹き飛んだ命がある。言いたい事も残せずに旅立った人たちが余りにも多い。そんな中、父の癌の告知を受けて、母は、当然、励ます役割だった。米国在住の私は、毎日のように、その後、電話で、震災と父の肝臓癌の様子を聞くのが週間となった。

行き付く暇もなく、ネットで日本の被害状況を追うしかない自分の姿がとても歯がゆく、とても、辛かった。癌患者を抱える家族と言うものが自分と無関係のような気さえしていた。そんな昨日、母と連絡を取っている時に、母が、1月に胸をひどく打って、通院していた病院を通じて、新たなる告知がされた。母は、大変だったとその時の事を過去形のように話していた。私もその件は、すっかり終わっていたものかと思ったら、別件で引っかかったらしい。診断は、乳癌である。

こんな事が起きるものなのだろうか。一度に父母がしかも、同じ月に同時に発覚、告知されるなんて。さすがに、母も「同時だから困った。店開けるわけにはいけない」等と話している。それどころではないだろと言いたいが、あえて、笑って答える私。父親の方は、21日には、大学病院で、今後の手術や細かいプロセスの説明を受けるらしい。母は、月末に、具体的な乳癌の進行状況を聞きにいくらしい。「こういう時まで、仲良くしなくてもいいけどね」と電話の向こうで、まだ、笑わせる余裕を見せる母。

震災で少し、遠くて助かったと思う反面、同時で両親が癌告知。自分もちょっと、整理する時間が必要だな。

大会の日の夜、携帯の留守電に、日本の母からの、メッセージが入っていた。内容は、父が定期健診で引っかかり、大学病院の精密検査で、癌細胞が発見されたそうだ。以前は、B型肝炎、今度は、大きな肝臓癌が発覚。末期だ。いつ帰国すればいいかのタイミングは、母の判断で、私に伝えると言った。

私の両親は、自分達ではじめた自営業を営み、現在、兄の代へと継承されている。有難い事に、どんなにマスコミ報道で激しく団体が、どんなに叩かれても、絶対にやめろとか、反対するような言葉を、私に向けた事は一度もないのが、私の両親だ。

人に媚びず、自分の道は、自分で決めるものというのが両親のスタンスだった。TV報道で、私の所属する団体が、がんがん批判をやっていた時も、「組織を離れたものはそういうのさ」と軽く笑っていた父。母は、「自分が、選んだ道ならば、この報道をやめさせる位の力をあなたが持ちなさい」と私に食いついた。

一代で、全くのゼロから、急成長した父の事業は、一時、数十人の従業員を抱えたが、バブル崩壊と共に、見事に崩壊。弾け飛んだ。両親が最も厳しい状況の時、私は、献身者だった。気にして電話すると、母は、人の心配よりも、「自分がやるべき事、やらなければならない事をやりなさい。」と語るのが常だった。

そんな私が、渡米したのは、15年前。関西から東京、東京から海外。全くの別世界を歩んでいる息子を信じる親の思いはいかばかりか。それまでは、帰国する時は、誰かの葬式というケースが多かったが、韓国に行く用事があった2003年に、田舎から母を東京に呼び、銀座のホテルを予約し、2泊3日の東京近隣ミニツアーを組んだ。

新宿、原宿、表参道、お台場等、横浜。いろいろな所を案内した。母は、とても、喜んでくれた。親の苦労を知っているだけに、それまでの、何もしてやれなかった葛藤だけが残っていた。気丈な母は、帰り際に、「絶対に、やりきるのよ」とだけ言って、帰っていった。電話をすると何度も、母は、その時の話をする。こんな、放蕩息子の振る舞いが、よほど嬉しかったのだろう。

大会後に、私は、自問自答した。「私は、本当に、自分のやるべき事、やらなければならない事ができているのか。」と。