違和感の理由
ちょっと、通学途中に考えたんですが
たぶん、先生と生徒の関係が理由なのかもしれないです
少なくとも東アジアでは、先生は正しくて、生徒の間違いを修正していくというのが基本だと思います
自分の理想とする関係は、平等あるいは、コーチという本質的なものを目指すべきなんじゃないかと思うんです
日本での多くの場合は、先生が正しいと思うものがゴールであり、この正しいと思うものは、ある意味、画一的にgiven(所与?)なものとしているパターンが多いと思うんです。
コーチというものの本質は、乗客すなわち生徒の望むゴールであり、このゴールというものは、実は明確でなかったりもします。一人一人のゴールは違うし、またゴールの見え方も違うはず。だからこそ、先生という立場の人は、一人一人の生徒のことをちゃんと見て上げるべきだと思うんです。先生が正しいと思うものが全てではなく、ゴールという解答は実は、これから生徒と一緒に作っていくものでもあるんじゃないかなぁと思うわけです。一つ前のブログで自分の指摘した点は、先生が偉そうに見えるとかそういう視点ではなく、先生が生徒に教えるという哲学的な観点で違和感を持っているのです。
関係ないですが政治ネタ
以前、地方と都会の1票の格差とか、税金で得られた資源の再配分の格差については議論の中心になったりしますが、
実際は、年代ごとの格差の方が深刻だったりします
若い人の1票と年寄りの1票の間には信じられない格差がありますし、年寄りの関心のある政策議論について、年金とか後期医療などについては若者は関心が低く、若者の関心はより未来志向で中長期的観点だと思うんです(国際関係とかよく分からない税金の使われ方など)。何がいいたいか不明かもしれませんが、政策などは、子供や未来のことを中心に考えて欲しいということです。
たぶん、先生と生徒の関係が理由なのかもしれないです
少なくとも東アジアでは、先生は正しくて、生徒の間違いを修正していくというのが基本だと思います
自分の理想とする関係は、平等あるいは、コーチという本質的なものを目指すべきなんじゃないかと思うんです
日本での多くの場合は、先生が正しいと思うものがゴールであり、この正しいと思うものは、ある意味、画一的にgiven(所与?)なものとしているパターンが多いと思うんです。
コーチというものの本質は、乗客すなわち生徒の望むゴールであり、このゴールというものは、実は明確でなかったりもします。一人一人のゴールは違うし、またゴールの見え方も違うはず。だからこそ、先生という立場の人は、一人一人の生徒のことをちゃんと見て上げるべきだと思うんです。先生が正しいと思うものが全てではなく、ゴールという解答は実は、これから生徒と一緒に作っていくものでもあるんじゃないかなぁと思うわけです。一つ前のブログで自分の指摘した点は、先生が偉そうに見えるとかそういう視点ではなく、先生が生徒に教えるという哲学的な観点で違和感を持っているのです。
関係ないですが政治ネタ
以前、地方と都会の1票の格差とか、税金で得られた資源の再配分の格差については議論の中心になったりしますが、
実際は、年代ごとの格差の方が深刻だったりします
若い人の1票と年寄りの1票の間には信じられない格差がありますし、年寄りの関心のある政策議論について、年金とか後期医療などについては若者は関心が低く、若者の関心はより未来志向で中長期的観点だと思うんです(国際関係とかよく分からない税金の使われ方など)。何がいいたいか不明かもしれませんが、政策などは、子供や未来のことを中心に考えて欲しいということです。