「成りの果て」 第八話 | カ    オ    ス  

「成りの果て」 第八話

目の前に小百合が座っている。

たまにレモンティーを口にしては、窓の外を眺めているようだ。

彫江は小百合の顔を直視することが出来なかった。
 
自ら声をかけておきながら、いざ向かい合うと、言葉が出てこない。

気まずい沈黙が続いていた。

店内には70年代のレトロな音楽が、少々控えめなボリュームで流れている。





「拭いたら?」

「・・え!?」

小百合がハンドバックからハンカチを取り出した。

「すごい汗よ」

「・・あ・・ああ。・・ありがと」

涼しい店内にも関わらず、彫江の額には油汗がにじんでいる。

ハンカチを受け取る際、この日初めて彫江は、まともに小百合の顔を見た。

半年前と何ら変わらない清楚な顔立ちをしている。

じっと見つめているだけで吸い込まれそうになる大きな瞳には、包容力と

強い意志が同時に宿っているようだ。

学生時代に小百合と出会って以来、彫江はずっとこの魅力的な目に惹か

れていた。

他人と壁をつくらず、誰とでも仲良くなれる明るさ。

何でも卒なくこなす機敏さ。

困っている人に対しては、見て見ぬふりが出来ない優しさ。

小百合は、彫江にはないものを全て持ち合わせていた。

やがて結婚して子供が出来てからも、それは変わることがなかった。 

仕事先から疲れて帰宅した彫江を、自分も家事や育児などで十分疲れ

ているはずなのに、一切そういう素振りを見せず、いつも暖かく迎えてくれた。

まさに理想の妻だった。

しかし、今目の前にいる女性はもはや妻とは呼べない存在なのだ。





「・・健太は?」

「今は幼稚園に行ってる時間よ。母の家の近所に見つけたの。すぐに新しい

友達もできたみたい。」

「そ、そうか。・・それは良かった・・。」

どうやら現在、小百合と健太は、中目黒にある小百合の両親の家で一緒に

暮らしているらしい。

思い出してみると、2人が家を出て行った際の小百合の父親の怒りは凄まじい

ものがあった。

電話越しで2時間以上怒鳴られた上、マンションにまでやって来たのだ。

激昂する小百合の父親を前に、彫江はただ「申し訳ありません」とうなだれる

ことしか出来なかった。





「平日の昼間なのに私服なのね・・・。」

思いもかけず、小百合が呟いた。

彫江はどう返して良いのか分からない。

「まだ立ち直れないで、ブラブラしているの?」

「・・・・・・・・・・。」

小百合は静かに溜め息をついた。

「あなたって、本当に弱い男ね。プライドが高いことをカッコいいと思っているなら

大間違いなのよ。」

「ち・・違う・・」

「何が違うのよ。だってそうじゃない。未だに、元大手IT企業の肩書きに縛られ

ているんでしょう!?新しい仕事を探そうにも、元docodemodoor社員のプライド

がそれを許せないんでしょう!?そんなのおかしいわ!間違ってる!だって・・」

「違うんだっ!!」

その瞬間、店内に彫江の声が響き渡る。

隣りのテーブルに座っているカップルが、驚いた様な表情でこちらを見ていた。

カウンター奥の店主も、皿を洗う手を止め、こちらを覗っている。

何よりも目の前の小百合が一番驚いていた。

結婚する以前にも、これほど感情を顕わにした彫江を見たことは無かった。

懐かしいビートルネードズの曲だけが、何事も無かったかのように、小気味よく

店内に流れている。

「違うんだよ。聞いてくれ、小百合。俺はもう新しい仕事を見つけたんだ・・。」

彫江は、ゆっくりと目をつぶった。

躊躇うことはない・・。

小百合には、これ以上情けない姿を晒すことは出来ない・・。

ようやく新たなる第一歩を踏み出そうとする自分を見て欲しい・・。

彫江は静かに目を開いた。

そして小百合の目を真っ直ぐ見た。

「・・・・・俺は、落花生の殻割りの仕事を始めるんだ。」


                               
                                    続く