宮永東山の記憶 | 幸せを呼び込む神社 神さまからの後押しを頂く参拝とは

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こんにちは
産土神社鑑定士 真壁辰郎です。


春の土用三日目

たいへん暖かな一日となりました。


先日街中を歩いていましたら


「あなたの思い出の品は何ですか?」


というポスターを
ショーウィンドーで目にしました。

母の日が近づいているからでしょうか。


立ち止まることもなく
横目で見ながら通り過ぎたのですが

頭の中では


「思い出の品か・・・」


と記憶を辿ることになります。


ほどなく浮かぶことになり

それは

宮永東山(みやなが とうざん)


私は京都の伏見稲荷で
生まれ育ったのですが

当時の家のすぐ近くに
陶器の窯元があり

子供の頃の
私の遊び場のひとつでもありました。


京都を離れ大人になりましても


「みやながとうざん」


という名は忘れることはなく
記憶の中にしっかりとありました。


ただ
「とうざん」の「とう」は

陶器の陶だと思っていましたから

宮永陶山だと思い込んでいたのですが
今回調べてみますと

宮永東山だと判明しました。

さすがにその部分は
忘れていたようです。


宮永東山についてはググると
すぐに詳しく調べられますから
今は本当に便利ですね。

こう記してあります。


宮永東山窯は
江戸時代から続く粟田焼の錦光山製陶所の顧問
初代宮永東山が明治42年(1909)に
京都市伏見区深草開土町に登窯を築いたことに始まります。
以後、初代、二代、三代と歴代の宮永東山は
個々の作家活動を行いつつ
轆轤・絵付など各工程を担う職人を抱え
製陶工房の経営に携わりました。
往事は40名近くの職人を擁し
高度な技術を駆使して高級飲食器を中心に製作し
全国に販路を拡大させました。
しかし昭和47年(1972)頃に煤塵問題によって
登窯の閉窯を余儀なくされ
平成2年(1990)に経営規模を縮小し
二代の死没後の同12年には製陶工房を閉鎖しました。



初代宮永東山は明治元年生まれで
昭和16年に亡くなっています。

そしてこう記されています。


宮永東山は青磁をもっとも得意とし
「青磁の東山」と称せられた。
明治42年伏見区深草に築窯し、以後は同地で作陶して
幸田露伴が命名した東山をもって陶号とした。



幸田露伴が命名したとは
凄い方だったのですね。
知りませんでした。


宮永東山について


宮永東山窯の歩み


私が京都で暮らしていたときは
二代目 三代目のとき。

三代目は現在も存命で
数年前に個展を開かれていますが
四代目はおられません。


宮永東山窯は当時の家のすぐ近くでしたし

小学校の同級生で仲良しの春ちゃんが
窯の裏に住んでいましたので

私は春ちゃんと二人でよく
窯に遊びに行っていました。

怒られることもなく
お菓子をもらったことなども度々あります。


窯ではときおりバーゲンが開催されていたのですが
母に連れられて何度か行ったのも記憶しています。

数十円からの値段で買えましたから

あの頃の我が家の食卓で使われていた食器はほとんど
こちらで買ったものだったのでしょう。


私も一度

母に


「好きなん選び」


と言われて

なぜだか青磁の花瓶を買ってもらいました。

250円


形も値段もしっかりと記憶に残っています。

こういう色のものです。




三代宮永東山 作 青白磁鎬手花瓶



あの花瓶

どこにいったんでしょう。

割れた記憶はないのですが
とうの昔に捨てられたのかもしれません。


なんだか宮永東山の器が欲しくなりました。

ヤフオクなんかでみると
そこそこ出ていますね。

数千円から~数万円くらいで。


手頃な値段で
青磁の一輪挿しなどがあれば

欲しいな・・


と感じています。



明日は新月

そして二十四節気の穀雨(こくう)

を迎えます。


いい一日をお過ごしください。







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6日  立夏(りっか)

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