ユビュ王の呟き

ユビュ王の呟き

右でも左でもない(実はやや左寄り)政治について語るブログです。
左右の典型的思考に嵌り自由を失うのではなく、自らの身体的感覚を重視しそこから考える。
反グローバリズム、反ワクチン関連の話題を中心にしていきます。

 

 

こういう本を読みました。

「リバタリアニズム」という日本では馴染みのない概念について知る上では良い本だと思いました。

一期目のトランプ大統領の頃に書かれた本で、最近のリバタリアニズムの動向からその歴史的な思想的背景について知ることができました。

もちろん2百ページ程度の分量なのでそこまで深堀はできませんが、概略を抑える点では良かったかな。

 

 

最近はアメリカに関する本をよく読んでいるのですが、日本にとって浅からぬ関係のあるアメリカという国を、日本人はどこまで良く知っているのだろうという思いが一層深まったように思います。

多くの日本人は、なんとなく「好意的な印象」とか、「親しみを感じる」という印象論でアメリカを見がちな気がしているのですが、相手の思考パターンや本質を良く知らずにそう思うのは、あまり良いことではないと思うんですよね。

 

 

私たちは皆、自由を謳いあげます。

しかし、同じ言葉を用いているからと言って、同じ意味で用いているとは限りません。

 

 

この本の巻頭にはこんな言葉があります。

リンカーンが言った言葉だそうです。

この著者の指摘で面白かったのは、アメリカはやはり「自由の国」であるということです。

リベラルな民主党も、保守の共和党も、第三政党のリバタリアン党も、皆「自由」を重んじている点では一致していて、実は政治的な差異は小さいのだけれども、逆に差異が小さいからこそ対立が熾烈になると。

なるほどそう言うこともあるかもしれないと思いました。

だから、アメリカという国は、その中で左の民主党と右の共和党という構図はあるにしても、そもそも国自体が思想的に日本よりもだいぶ左に位置しているという点は理解したほうが良いと思います。

 

 

直近ではトランプ大統領出席の夕食会にショットガンを持った男が乱入した事件がありましたが、あの男の主張を見ると「抵抗権」というやつを思い出しました。

これは政府が権力を悪用する時に市民が銃を持って立ち上がる権利なんですよね(この自由を保証するからこそアメリカは銃規制ができないのですが)。

「お上」意識が抜けない僕たち日本人の感覚からするとなかなか馴染まない概念というか姿勢ですが、そこまで徹底して「自由」を保証し擁護しているのは、ある意味で「覚悟」を感じるというか、それはそれで「アリ」だよなと個人的には思います。

そこにあるのは、政府が個人の自由を抑圧することに対する警戒心や反発心で、アメリカでは政治的な左右を問わず、全体的なトーンとしてこれがあるのだろうと思います。

 

 

「大きな政府」「小さな政府」とよく言いますが、「大きな政府」というのは財政支出を増やして政府の役割を大きくし、民間の自由市場に介入を行っていくと言うことです。

アメリカにおいては民主党が伝統的に「大きな政府」志向ですが、政府が市場に介入するのは「自由」への侵害であると反発し、「小さな政府」を唱えるのがリバタリアニズムです。

伝統的に「小さな政府」思考なのは共和党なので、経済的な保守派という点ではリバタリアニズムも右派に分類されるのですが、リバタリアニズムが共和党支持層の宗教保守と違うのは、個人の自由という観点から中絶や移民や同性婚には賛成しているという点です。

つまり社会的な価値観ではリベラルなわけで、この点がリバタリアニズムの立ち位置を、少なくとも僕たち日本人からは分かりにくくしていると思うのですが、「右か左か」ではなくて、「全体か個か」という軸で観ると、リバタリアニズム、ひいてはアメリカのことが分かりやすくなる気がします。

 

 

 

 

横軸を「右と左」、縦軸を「全体主義(権威主義)と個人主義」とした場合に、こんな感じになるのかなと。

民主党は左且つ都市部のエリートが支持層で、知識マウントを取りがちで(権威主義)、「大きな政府」志向なので全体主義により近い(アメリカの中では、ですが)

共和党は「小さな政府」志向な一方で、宗教保守が支持層なのでエリートの権威主義への反発から中絶や移民や同性婚は価値観の押し付けだと嫌悪し反発する。

リバタリアンは「小さな政府」志向かつ社会的にはリベラルなのでその中間なのだけれども、「右でもなければ左でもない」と日本人が言いがちなやつ(このブログにもそんなことが書かれていた気がしますが)と違って、個人の自由を徹底的に擁護するという姿勢が一本筋が通っているんですよね。

個人の自由に反するものは民主党であろうと共和党であろうと批判するという立場が徹底しているのがリバタリアンであると。

 

 

ドナルド・レーガンやマーガレット・サッチャーのとった新自由主義に影響を与えたのがミルトン・フリードマンというリバタリアンの学者だったそうですが、「小さな政府」というと日本では新自由主義をイメージし、「弱者切り捨て」が連想されると思います。

 

 

リバタリアンがそういう政策を主導したのかというと、なんだか悪者のように思えるかもしれませんが、リバタリアンが「小さな政府」を志向するのは、政府の権限が大きくなりすぎれば個人の自由を抑圧するという警戒心からで、「弱者切り捨て」が目的ではないのですよね。

 

 

この点が日本における新自由主義と発想が異なる点だと思うのですが、日本における新自由主義の論法とは、政府の支出が大きくなりすぎてこのままでは政府が潰れるから福祉も保障も支出をカットしていくよという感じですよね。

ここでの主語は「政府」や「国家」で、「政府」や「国家」が存続していくために個人の弱者を切り捨てていくという発想です。

個人を主語にして、我々の自由を侵害しかねないから政府の権限を小さくするために支出をカットすべきだというリバタリアンの考え方とはまったく逆なんですよね。

むしろ個人の権利を守るという観点からリバタリアンは「弱者切り捨て」には反対するかもしれないのですが、新自由主義がリバタリアンの本来的な意図を離れて結果的に「弱者切り捨て」に寄与してしまったと言うことはあったかもしれません。

しかし著者の言う、日本においてはリバタリアンの視点が欠けているという指摘は全くその通りで、やはり日本では「国家」とか「政府」が主語になりがちで、それに反対する「個人」の視点からの批判が欠けていると痛感するんですよね。

結局日本人はいつも「全体」に流されて、個人は抑圧され隷属し、全体の中に溶けてしまう。

 

 

もちろん、リバタリアニズムも極端なところがあって、政府も軍隊も警察もいらないという極論を言う人たちもいるようですが(リバタリアンも様々で、穏健な人も原理的な人もいるようです)、日本人の全体主義的な傾向もかなり偏っていると僕は思うんですよね。

要するにこれはバランスの問題で、極端に傾かずなるべく中庸を目指すのが一番だと思うのですが、そのためにも対極に位置する思想を知ることは重要なのではないかと思います。

 

 

僕はリバタリアニズムとアナーキズムの違いがよく分からなくて、両者を混同していたのですが、この本の中で短く端的にリバタリアニズムは私有財産を否定する点でアナーキズムとは違う」と書かれていて、なるほどと腑に落ちました。

リバタリアニズムもアナーキズムも「政府はいらない」と言いがちな点で似ているように見えますが、アナーキズムはフランス革命からの共産主義に至る流れの中の分派みたいなもので、私有財産の否定とは原始共産主義への憧れ?みたいなものになるのかな。

リバタリアニズムにとって私有財産の否定とは「個人の自由の侵害」であって、この点でアナーキズムとは相いれないのでしょう。

だからリバタリアンは反共で、この点では右派に分類されるわけですね。

 

 

僕は仏文科出身だったので、リベラルと言うとフランスの流れで理解していたところがあるのですが、アメリカに対してどことなく、ケッ!と思いがちなフランスシンパの感情はやはり僕にもあったようで、若い頃の自分はアメリカを軽視していたきらいがあったなと自己反省しております。

そういう、僕の中の偏りを修正するために、でもなくて単に、知らないことが多いので新鮮だからアメリカについての本をいろいろ読んでいるのですが、自分の中の解像度を上げるためにこれからもいろいろと読んでいきたいと思いますね。

 

 

次はマックスウェーバーかな?

でも、あの本はほんとうに難しいんだよね。