育ててもらう子供だった自分が親になり、育てる側に。
教わる側ばかりだった頃から、いつの間にか教える側に。
以来教えること・伝えることの難しさは、歯にしみるように毎日痛感しています。
どうすればうまく伝えられるのか?
昔、先輩に
『何を伝えたかではなく、どう伝わったかだよ』
と教えられました。
いくらこちらが伝えたつもりでも、それが結果的に相手に伝わってなかったら伝えなかったのと同じ、と。
また、他の方からは
『伝わったかが大事ではなく、伝えることそのものに意味がある』
と教えてもらって感心したことを覚えています。
何が正しいかが分からない中で、逃げたこともあります。
所詮お前なんて教える側に立つなんて100年早いんだ、いつまでも学ぶ側に立つ初心を忘れるな、なんて。
でも40歳も過ぎ、業界20年を迎えた中で言えば、それは立派な言い訳だと言うことにも気づいたり。
初心を持ち続けることは大事だけれど、それを言い訳にして育てる側に立たない理由にはならない。
そして最近では、 『何をもって伝わったか?』ということを考えるようになりました。
先日亡くなられた蜷川幸雄さんの告別式での藤原竜也さんの弔辞が印象的でした。
(以下引用)
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5月11日、病室でお会いした時間が最後になってしまうとは。
先日、公園で一人、ハムレットの稽古の録音テープを聞き返してみましたよ。
恐ろしいほどのダメ出しの数でした。
瞬間にして心が折れました。
「俺のダメ出しで、お前に伝えたいことはほぼ言った。今は全て分かろうとしなくても、いずれ理解できる時が来るから」と。
「そしたら少しは楽になるから。アジアの小さな島国のちっちゃい俳優にはなるな。もっと苦しめ。泥水に顔を突っ込んで、もがいて、苦しんで、本当にどうしようもなくなった時に手を挙げろ。その手を必ず俺が引っ張ってやるから」
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当時は分からなかったけど、今になって思えば大切な言葉が過去の自分の人生でたくさんある。
今伝えなければならないこともあるし、後々になって結果的に伝われば良いこともある。
大切なのは、伝え方など小手先のことではない。
そこに想いがあるか。
信念があるか。
自問自答の日々は続くけど、だからこそ明日も明後日も伝え続けようと思う。
自信はないけど、それでも誰かの背中を押してあげられる使命感を持って。
何よりも、昨日の自分を超える今日であることを信じて。