光と 音と 鈴の音 と  〜 プラチナ sai 遊記 〜 -14ページ目

光と 音と 鈴の音 と  〜 プラチナ sai 遊記 〜

2021年の立春、ある出逢いをきっかけに僕らの不思議な旅が始まった。謎は謎を呼び、幾多の試練が立ちはだかる。預言が示す僕らのミッションは過酷で、ゴールは遥か遠くに霞んで見えない。果たして僕らは辿り着けるのか?

 

エピソード 1  古事記とプラチナ

 

 

語はまだまた続きますが、

 

このあたりで

 

ちょっと、ひと休み。

 

 

 

物語にも再三出てくる、

 

 

「プラチナって何か良さげ!」

 

という、僕の直感を 後押ししてくれるエピソードです。

 

 

 

例によって、僕の得意な妄想も

 

かなり入るかも知れませんので、(笑〕

 

 

そこのところは、

 

ご了承いただければ幸いです。

 

 

 

 

さて、

 

皆さんは 古事記 を読まれたことはありますか?

 

 

 

 

古事記には

 

100の神々が登場します。

 

 

ただ 面白いことに、

 

 

50番目 には同列で3柱の神が

 

三位一体として位置付けられています。

 

 

 

古事記の記述は以下の通りです。

 

 

 

次に火之夜芸速男神(ひのやぎはやをのかみ)  を生みましき。

 

亦名またの名は、火之炫毘古神(ひのかがびこのかみ)

と謂(まほし)、

 

亦名は火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)と謂(まほ)す。

 

 

 

記述をそのまま読むと

 

「またの名は、そしてまの名は」

 

というように、

 

 

一柱の神を三通りの呼び名で呼んでいるだけのようにもとれますが、

 

 

 

 

それぞれが、違う働きを持ち

 

一体となって働く別々の神です。

 

 

 

 

 

50番目に生まれた三神は 火の神 で、

 

 

その火の神を産んだため、

 

イザナミは 産道が焼け、

 

病に伏して、死んでしまいます。

 

 

 

イザナミが産んだ最後の三位一体の神は、

 

後に登場する 98.99.100番目の三貴子(みはしらのうずのみこ)

 

すなわち

 

 

 

月読命(つくよみのみこと)

 

天照大御神(あまてらすおほみかみ)

 

須佐之男命(スサノヲノミコト)

 

 

 

の三神に対応していると言われています。

 

 

この三位一体の神々が象徴するものは、

 

研究者によってまちまちですが

 

 

 

「鏡 玉 剣」

 

「こころ たましい からだ」

 

「言葉 言霊 文字」

 

 

などの三位一体と オーバーラップさせて

 

考えるケースが多いようです。

 

 

 

 

 

古事記は面白い構造になっていて、

 

三柱がワンセットの三位一体の神々が、

 

三組登場します。

 

前記の2セットに加えて、

 

 

古事記の初頭に登場する

 

 

天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)

 

高御産巣日神(たかみむすびのかみ)

 

神産巣日神(かみむすびのかみ)

 

 

の三神です。

 

 

 

「老子」の一節に

 

 

道は一を生じ、

一は ニを生じ、

ニは 三を生じ、

三は 万物を生ず。

 

 

 

というのがありますが、

 

 

 

万物は全て

 

三を基本に形作られているんでしょうかね?

 

 

 

 

て、本題の、

 

古事記とプラチナ

 

についての話なんですが、

 

 

 

プラチナの原子番号は78です

 

 

その78番目に生まれた神が、

 

 

古事記ではどう位置付けられているか?

 

 

 

というお話です。

 

 

 

古事記で78番目に生まれてくる神は、

 

和豆良比能宇斯能神(わづらひのうしのかみ)

 

といいます。

 

煩累の大人(わずらひのうし)の神

 

とも表記されます。

 

 

 

その神の誕生風景を

 

古事記は次のように語っています。

 

 

「次に投げ棄つる御衣(みけし)に成りませる神の名は、

 

煩累の大人(わずらひのうし)の神。」

 

 

 

 

死んでしまったイザナミを追い、

 

すったもんだ のえらい目にあったイザナギは、

 

 

やっとの思いで

 

黄泉の国を後にします。

 

 

そして、

 

 

黄泉の国から戻ったイザナギは、

 

 

黄泉の国の穢れから 

 

身を清めるために、

 

 

竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘の小門(をど)の阿波岐原

 

というところで禊を行います。

 

 

現在の宮崎県宮崎市阿波岐原町あたりだそうです。

 

 

 

 

プラチナと同じ、98番の神、

 

和豆良比能宇斯能神(わづらひのうしのかみ)

 

は、その時 イザナギが脱ぎ捨てた

 

黄泉の国の「穢れ」にまみれた

 

衣服 から生まれたというのです。

 

 

 

それにしても

 

煩累の大人(わずらひのうし)の神

 

とは ひどい表現です。

 

 

「煩いの主人」

 

 

みたいな意味ですが、

 

これをそのまま

 

「神穢れや煩いをもたらす神」

 

と解釈する説もあります。

 

 

 

も、僕は

 

 

この神を

 

 

「イザナギが黄泉の国の穢れを払うために

 

穢れの付いた衣 を脱ぎ捨てた」

 

 

そんな行為の象徴 だととらえ、

 

 

 

「禊(みそぎ) を象徴する神」

 

「衣服の穢れを 払い清める神」

 

 

なのだとする説を支持します。

 

 

 

日本の神々は

 

「災いから守ってくれる神」

 

という一面と、

 

 

人の対し方、振る舞い方によっては

 

「災いをもたらす神」にもなる

 

という、厳しい一面もあります。

 

 

 

要は、

 

人間の、神との付き合い方

 

なんだと思います。

 

 

 

神々とは

 

畏敬の念を忘れず、

 

謙虚な気持ちで付き合っていきたいものです。

 

 

 

さて、

 

この、プラチナと同じ

 

98番目の神

 

和豆良比能宇斯能神(わづらひのうしのかみ)

 

 

 

「禊を象徴する神」

 

 

つまり

 

 

衣服の穢れを 払い清める

 

禊(みそぎ)の神 と考えた時、

 

 

その 「穢れをまとった衣服」とは

 

一体なんなんでしょう?

 

 

「服の事に決まってんじゃん!」

 

と、一笑にふしてしまっては

 

身もフタもありません。

 

 

 

僕は

 

この 衣服 を

 

「僕らが身につけているもの」

 

「僕らが身にまとっているもの」

 

 

と拡大解釈してもいいんじゃないかな?

 

と思います。

 

 

神話は メタファーに溢れています。

 

どこに大切な比喩が

 

暗号のように隠されているかわかりません。

 

 

「僕らが身につけているもの」

 

「僕らが身体にまとっているもの」

 

 

それは何か?

 

と問い続けること が、

 

 

 

プラチナの

 

新しい、未知の可能性を

 

見つけ出していくことに

 

繋がりそうな気がするのです。

 

 

 

「僕らが まとってるもの」

 

とは

 

 

一体、なんでしょう?

 

 

肉体?

 

エーテル体?

 

それとも

 

アストラル体?

 

 

光のオーラ?

 

負のオーラ?

 

 

自意識?

 

肩書き?

 

考え方?

 

主義、主張?

 

イデオロギー?

 

こだわり?

 

ポリシー?

 

 

トラウマ?

 

過去生?

 

 

守護霊?

 

先祖霊?

 

 

喜び?

 

苦しみ?

 

絶望?

 

 

 

考え出すと

 

キリが無さそうです。笑

 

 

でも、それがなんであれ

 

 

この78番目の神

 

 

和豆良比能宇斯能神さんの

 

力を宿した

 

プラチナ くんが

 

 

それらを 払い清め

 

僕らの 禊(みそぎ) を

 

サポートしてくれそうな・・・

 

 

 

 

そんな

 

気がするのです。

 

 

 

最後までよんでくださって、ありがとうございます💓