フェイク 第1386号 日顕の幼児性は過保護に由来(発行=13.05.06) | フェイク置き場

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フェイク 第1386号(発行=13.05.06)
日顕の幼児性は過保護に由来
「大白法」を粉砕 三悪道の狂気の日顕 ④
四十歳を過ぎ役僧になった後も自立できず

日顕の異常性格が驚くべき幼児性にあることは前号で紹介した通りである。
その原因について精神科医は、一般的に人格の未熟さは親の過保護に由来し、日顕の生い立ち、母子・父子関係、父母の夫婦関係、特に母親との関係に問題を含んでいたのではないかと指摘する。

以下に、複雑な日顕の生い立ちを見ることにする。

戸籍上の父親である阿部日開の本名は運蔵で明治七年三月、福島県信夫郡荒井村に阿部庄右衛門の長男として生まれた。父・庄右衛門が早死にしたため運蔵は一家の長として十五歳で隣村のサトと結婚。相当の早婚である。ところが、間もなく早熟の弟・十四歳の銀蔵がサトと深い関係になり、村中の噂になった。

失意の運蔵は村を出た。母方の祖母が妙俊尼と名乗って福島市の広布寺の留守居役をしていたので、その口添えで、この寺の創建者である大石日応の弟子になり、法運と名を改めた。

この年、日応が大石寺の五十六世法主となったことで法運は出世コースに乗り、大正四年には東京・常泉寺の住職になり、ここで日顕の母・彦坂スマと出会う。

一方、スマの母・彦坂ぶんは二度の結婚に失敗した後、東京・白山の三業地(料理屋・待合茶屋・芸者屋の営業を許可された地域)で働き、石川貴知の妾になり、その間にスマと帰一郎が生まれた。石川は男児を認知したが、スマは女児という理由で認知されていない。スマを知る檀家が法運に「寺好きの女がいるのですが、住職さんに引き合わせましょう。もし見て気に入ったらタバコ
に火をつけてください。私が女を納得させますから…」と囁いた。

法運は色白で豊満なスマを見て一目惚れ。タバコに慌てて火をつけ、むせかえったという。

法運はスマに熱をあげたものの、宗務院総務心得になっていたために本山行きや、法主の大石日応に随行して各地を回る機会が多く、不在がちだった。

法運の留守中、常泉寺の近くにある本行寺の住職をしていた高野法玄(後の日深)が出入りするようになり、スマと親密な関係になった。法玄は法運の弟子である。

スマは法運と二十四歳の開きがあったが、法玄はスマより三歳年上。魚心あれば水心で、直ぐに深い関係になったようだ。この頃も宗門は財政難で金銭問題には厳しかったが、男女関係はルーズだったと言われている。こうして大正十一年十二月十九日、スマは信夫(日顕)を出産した。

だが法運は疑惑を抱いてか、信夫を認知せず、昭和三年六月、日開は法主になったのを機に認知した。

スマの入籍は昭和十三年で、信夫の戸籍はスマの私生児として扱われていた。
そのスマは信夫に対して大変な過保護だった。昭和三十一年に「信雄」に改名して住職、更に役僧になった後も母親の庇護から自立できなかった。(つづく)

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