読んでいる本に没頭できるかどうか、ページを先に進めたくなるかどうかは、文と内容が自分の心の琴線に触れるかどうかで随分変わってくるのではないかと思っている。


 たとえば私の「琴線に触れる」小説というのは、リアリティはあくまで高いままで、表現や動静がきめ細やかで品位が高いもの、登場人物は少ないながら意識の潮流が掴みやすいものであると思っている。


 一方で読み進まないものとして、存分にリアリティがあり全体的に「面白い」に繋がりながらも、人物が多くて追いかけるのに一苦労する、人物同士の関係を把握しながら読み進めないと流れがわからないなどであり、それらに直面すると“とりあえず目を瞑ろう”、”横になろう“となって、出直しに時間をかけるものである。


 今度は清冽とした国内文学で脳を清らかにしたいと思いながら、選んだのは川端康成の「眠れる美女」である。

こちらもいつか申し上げたことがある私の「文学的劣等感」の最たる小説作品ではないだろうか。



 前置きが長くなったが、正に「眠れる美女」は私の心の「琴線に触れる」小説作品になりつつある。

 「なりつつ」あるというのは、まだ読んでいる途中なのでそのように喩えるのであるが、まずこの作品を讃えるべきなのは、直接的な性描写なく直接的以上に官能さを文のみで表現する作者の力である。

 まず、眠っている若い女性だけを集めた置屋は甚だ現実離れしているものの、「現実にあればいいな」とか、対象者が老男性ばかりであるというところに、普段意識下に隠れている「男性」の欲求を呼び覚ますものがある。


 そして着目すべきは、寝たままの若い麗らかな女性と老いが増してきつつある男性との対称化である。

寝たままの若い女性というのが、意識がある状態より一層艶かしく、男性にとってはそれを感じるほど「老い」を実感するのである。


 もう一つ、恥部の描写が一つも無いのにかかわらず、指・髪・肌・腕・唇の細やかな描写がまるで恥部と見紛うばかりに思える表現である。


 年老いた男性が、もの一つ言わない若い女性を愛でるのを見るのは、文章でも気持ち良いものではないが、そう思わせるのも作者の技工、私は一種の小説芸術として、何だか崇高なものとして受け取っている。


 物語はまだ中盤前、老い男性の間接的な快感に浸りながらの過去の回想はどのような結末を迎えるものか。