数日前に牧野信一の「鬼涙村」を通読し、まだ頭は「マキノ幻想」から冷めやらぬ状態の昨日、読書中のフレデリック・フォーサイスの「ジャッカルの日」には直ぐに戻らず、小山清の短編にちょっと寄り道することにしてみた。



 ちびちびと呑んでいる(いや、間違い。読んでいる)「落穂拾い・犬の生活」の冒頭にある「わが師への書」は、今まで読んだ「メフィスト」「落穂拾い」とも性質の異なるものであった。

 現実のものとも架空のものともつかない「先生」に、孤独に苛まれる青年が語りかけるようなその文体に、いつか読んだ作品を起草させるものがある。


 アンドレ・ジッドの「地の糧」である。
こちらはナタナエルという架空の人物に、頻りに語りかけるような散文詩であるが、「ジッドを読むなら地の糧から」という助言に反し、かなり読むのに骨を折ったものである。

 しかし時を経た「地の糧」を「わが師への書」と対比しながら部分的に読み返しているうち、「なんと格好良く響いてくるんだこの一節一節が。」と意識が変わってきた。

 そう、「地の糧」は口の端で朗読すると何とも心地良く、一つの詩として読むと、意味を完全に解しなくとも何ともキレがあってよく響くのである。

 そして「わが師への書」は、最後の一言を読むとそれまでのすべてを物語っているような気がしてくるのであった。