以前読んだ「ゼーロン」以降、潜在意識下に牧野信一の作品の印象が残っているので、他の小説作品を読みながらも、時々「ゼーロン」という言葉が頭に浮かんでくることがある。


 「ゼーロン」とはつまり、ドン・キホーテの「ロシナンテ」よろしくの驢馬であるが、それを駆る男の動機や、読み手が徐々に確信するお尋ね者の骨組みが独創的で、いわゆる幻想小説のイメージなのかもしれないが、一概に何処かへ組み込むのも無理がありそうだ。


 何とも形容し難いというのが、私に言える牧野信一の作風なのであるが、私の中では琴線に触れ、毎回読むのが愉しみなものであるのは間違いない。



 昨夕読んだ表題の短編「鬼涙村」は、先程述べた意識を更に確実にさせた作品である。


 本の表紙からは、何か寂しいものが…おどろおどろしいものが…と想像が逞しくなるのであるが、想像に反し作品そのものは、滑稽且つ不可思議なものである。


 いわゆる「マキノ幻想」は、文章が取り分け美しく理路整然としているわけではなく、オチも一向に要領を得ないものである。


 では何に読者が惹きつけられるのか。


 何とも説明し難いのであるが、読んでいくと次第に作品の世界のルールのようなものが、カチッカチッと出来上がっていく感が起こる。


 あわせて、個性的と不気味の中間地点ぐらいの登場人物が、「マキノ幻想」の雰囲気を一層「マキノ幻想」に仕立て上げ、何にも属しない作品に形作るので、読者は自然、幻想譚に惹きつけられる作用が起こるのではないかと思う。


 式で表すとこんな感じかもしれない

 ↓

 「マキノ幻想=読んで積もるマキノ幻想+変な登場人物」


 「鬼涙村」は、誰が次にリンチに遭うかを始終巡らせる作品なので、読む際は村がどうとかいうものはあえて意識せず、「マキノ幻想」を醸し出す一種独特な世界が設定されたのが「鬼涙村」であると考えるといいかもしれない。